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第61話 銀縁の密使

 見回りに出た。


 夜。前線基地の外れ。聖騎士団の見張りとは別のルート。独立部隊として、自分たちの周囲は自分たちで警戒する。リーゼは「私が行く」と言ったが、「俺が行く。お前は休め」と返した。リーゼの碧い瞳の下の隈が、日ごとに濃くなっている。休める時に休ませるのも指揮の一つだ。


 松林の中を歩いた。針葉樹の枝が月明かりを遮っている。暗い。足元に落ち葉が積もっていて、踏むたびに乾いた音がする。夜の山の匂い。冷たい空気に、松脂の匂いと、湿った土の匂いと、遠くの冥渦から流れてくる微かな金属の匂いが混じっている。口の中にはまだ夕食の干し肉の塩気が残っていた。前線の食事は塩辛い。保存食ばかりだから。


 左腕の魔印が微かに脈打った。冥渦の方角ではない。別の方向。


 聖属性の残滓。薄い。だが確かにある。


 足を止めた。松林の奥。月明かりが枝の隙間から差し込んで、木の幹に白い模様を描いている。その模様の中に、白い影が立っていた。


 白い法衣。銀縁の眼鏡。月光がレンズを光らせて、一瞬だけ白く瞬いた。痩身長躯。口元に笑みがない。今夜のマルクスは笑っていなかった。


「データを届けに来ました」


 低い声。松林の暗がりの中で、二人だけの声。聖騎士団の陣営から抜け出してきたのだろう。教会の審問官が、教会の聖騎士団の監視を掻い潜って、ギルドの独立部隊の人間に情報を渡しに来ている。もはや「条件付きの協力」ではなく、内通だ。


「聞く」



 ◇



「局長の間接策を確認しました」


 マルクスが木に凭れかかった。銀縁の眼鏡を押し上げて、月明かりの中で話し始めた。声が低い。周囲に聞かれないように。松の枝が風に揺れて、葉擦れの音がマルクスの声を覆い隠す。自然の遮音。


「あなたの配置先が最前線の山岳地帯になったのは、偶然ではありません。局長がギルド本部に働きかけて、最も冥渦の発生頻度が高い地域にあなたを配置させた」


「知ってた」


 マルクスの銀縁の眼鏡の奥の目が、微かに動いた。


「エリシアを通じて配置先の交渉をした時点で、こちらの希望が完全には通らなかった理由が分かった。独立部隊として動けるようにはなったが、配置先は教会が選んだ。……教会が介入していることは、読めていた」


「……読んでいましたか」


 マルクスが一瞬黙った。それから、口元が微かに動いた。笑ったのではない。だが、何かを認めた顔。


「成長しましたね。ラスティカで初めて会った時は、私の聖鎖に為す術もなかったのに」


「お前に負けてから、色々あった」


「色々。……ええ。色々あったようですね」


 マルクスの目が、俺の首元を一瞬だけ見た。襟から覗きかけている魔印の先端を。だが、そこには触れなかった。マルクスもドルクと同じだ。見えていても、必要がなければ言わない。


「追加のデータがあります」


 マルクスの声が、一段低くなった。


「局長の計算では、あなたがこの戦線で冥渦と戦い続ければ、半年以内に魔印の進行率が40%を超えると見積もっています」


 40%。


 数字が重い。ノアの最初の計算では「3年で60%」だった。通常の生活ペースで。だが聖戦の最前線では通常のペースなど存在しない。連日の戦闘。複数属性の同時使用。融合魔法の連発。蝕の使用が始まれば、更に加速する。


「半年で40%。……ノアの計算と合わせると、そこから残り一年で60%に届く。つまり——」


「一年半。あなたの残り時間は、聖戦に参加し続ける限り、一年半に縮まります。……それが、局長のシナリオです」


 マルクスの銀縁の眼鏡が月光を反射した。


「その時点で、あなた自身が浄化を望む。魔印の進行に耐えきれなくなって、自分からヴィクトル局長の聖域を求める。……それが、局長の描いている結末です。直接浄化を禁じられた局長が、あなた自身に浄化を『選ばせる』ためのシナリオ」


 善意の策略。ヴィクトルらしい。殺すのではなく救う。力ずくではなく、選ばせる。穏やかな微笑みの奥で、一年半の消耗戦を設計している。


「なぜ教えてくれる」


 聞いた。毎回聞いている。毎回、答えは同じだ。だが聞かなければならない。マルクスが教会を裏切っている理由を、そのたびに確認しなければ。


「前にも言いました。データが示す最適解に従うのが私の流儀です」


 同じ答え。だが——。


「あなたが消耗して倒れることは、冥渦の封印にとって最悪の結果です。あなたが封印を修復できる唯一の存在であるなら、あなたを消耗させることは自殺的な戦略だ」


 マルクスの銀縁の眼鏡の奥の目を見た。月明かりが枝の間から差し込んで、マルクスの顔の半分だけを照らしている。眼鏡の片方だけが光っている。


 目が変わっていた。


 以前のマルクスの目は、冷徹だった。データで全てを測る。感情を排除した合理主義者の目。ラスティカで初めて会った時も、王都の屋根の上に座っていた時も、同じ目だった。


 今夜の目は、冷徹だけではなかった。冷徹の中に、何かが混じっていた。何と呼べばいいのか分からない。怒りではない。悲しみでもない。データでは測れない何か。データ主義者の中に、データでは説明できない感情が芽生えている。


 マルクスが最後に言った。


「局長の方針は、もはや最適解ではない。……データに基づいて、私はそう判断しています」


 声が微かに震えていた。データに基づいて、と言った。だが声が震えている。データは震えない。震えているのは、マルクスの中のデータではない部分だ。


「マルクス」


「何ですか」


「お前のデータは正しい。だが、お前が震えている理由は、データじゃないだろう」


 マルクスの銀縁の眼鏡が、一瞬だけ曇った。息が白かったのだ。夜の山の冷気が、マルクスの吐息をレンズに結露させた。


「……それについては、まだデータが不足しています」


 マルクスが背を向けた。白い法衣が松林の暗がりに溶けていく。足音が落ち葉を踏む音だけが残って、それも消えた。松脂の匂いと、冷たい夜気だけが残った。



 ◇



 テントに戻った。メルティアが起きていた。赤い瞳が蝋燭の光の中で俺を見た。


「マルクス?」


「ああ。……ヴィクトルの計画を教えてくれた」


「内容は?」


「半年で40%。一年半で60%。俺が自分から浄化を望むのを待っている」


 メルティアの赤い瞳が、蝋燭の炎を映したまま、動かなかった。数秒。炎が三回揺れた。


「……知ってた」


 メルティアが言った。小さく。


「ヴィクトルの計算は、千二百年前の教会の戦術と同じ。調律者を消耗させて、最後に『救済』を差し出す。……同じ手段を、千二百年後にも使っている。教会は変わらないわ」


 ♪がなかった。声に疲労があった。千二百年の疲労。同じ構造が繰り返されることへの、底なしの倦怠。


「だけど」


 メルティアの赤い瞳が、蝋燭から俺に向いた。


「千二百年前と一つだけ違うのは、今の調律者には仲間がいるということ。あの時は——彼は、ほとんど一人だった」


 声が途切れた。一瞬だけ。千二百年前の「彼」の名前を出しかけて、飲み込んだ。だが、言おうとしたことは伝わった。


 今は一人ではない。リーゼがいる。シアがいる。メルティアがいる。ノアがいる。アリアがいる。ユイがいる。エリシアがいる。マルクスまで、データの名の下に味方についている。


 審問局の第三席が、局長の策を裏切り始めている。合理の叛旗。だが、叛旗を翻した先に何があるのか。マルクス自身にも、まだ分からないのだろう。


 松林の方角に、マルクスの気配はもうなかった。月が雲に隠れかけていた。テントの蝋燭だけが、小さく揺れていた。


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