第58話 冥渦
前線基地に着いた。
山岳地帯。標高が高い。王都を出て三日。街道を外れてからは獣道に近い登山路を進んだ。空気が薄い。だが澄んでいる。針葉樹の樹脂の匂いと、岩肌の鉄分の匂いが混じっている。春だが朝晩は冷え込む。息が白い。
基地は谷間に設営されていた。テントの列。白い法衣の群れ。教会の聖騎士団が既に陣を敷いている。百人以上の兵が動いている。鉄と革と馬と煮炊きの煙が混じった、人間が密集する匂い。軍隊の匂い。冒険者ギルドの酒場とは質が違う。酒場は自由の匂いがする。ここは規律の匂い。
前線基地の指揮官に挨拶した。聖騎士団の隊長。壮年の男。白い法衣に銀の肩当て。俺たちを見る目に友好はなかったが、敵意もなかった。「ギルドの独立部隊か。……冥渦の迎撃は聖騎士団が担当している。ギルドは後方支援に回ってくれ」
「後方支援は受けない。冥渦に直接当たる」
隊長の目が鋭くなった。だが、何も言わなかった。Aランクの独立部隊が前線に出ると言っている。戦力が増えることを拒否する理由はない。
「……勝手にしろ。ただし、聖騎士団の作戦行動を妨害するな」
「了解だ」
リーゼが碧い瞳で基地の配置を観察していた。「テントの配置が合理的ね。退路が三方向に確保されている。……この隊長、実戦経験がある人ね」。リーゼの目は戦場を読む。
◇
最初の冥渦を見に行った。
基地から北東に一時間。山腹の岩場。針葉樹の林を抜けた先に、それがあった。
直径十メートルの裂け目。
地面に口を開けた、赤黒い傷。岩を割って、土を裂いて、大地がそこだけ壊れている。裂け目の縁が赤黒く脈動していた。心臓のように。ゆっくりと、だが確実に。拍動のたびに、中から魔素が吹き出す。黒い霧のように。上に向かって。
周囲の植物が灰色に変色していた。裂け目から半径二十メートル以内の針葉樹が、葉を全て落として灰色の骸になっている。草も枯れている。石も変色している。生命を拒む領域。
匂い。金属的な焦臭。地下墓地で嗅いだものと同質だが、濃度が桁違いだった。十倍。鼻腔の奥が痛い。目が刺す。空気を吸うだけで、肺の中に鉄の味が広がった。
左腕の魔印が脈拍を上げた。共振。冥渦の中の魔素と、俺の体の中の魔属性が共鳴している。首の付け根の紋様が、微かに灼けた。
「これが冥渦か」
声が出た。ノアが応えた。
「千二百年前に封じたはずの傷だ。封印が完全に壊れて、中身が溢れ出している。……あの中にはまだ古い存在が眠っている。全部出てくる前に、封じなければならない」
裂け目の中が見えた。暗い。底がない。暗闇の中で、何かが動いている気配がある。巨大な何かが、裂け目の奥で身じろぎしている。
冥渦の縁が、一際大きく脈動した。
何かが出てきた。
◇
上位種だった。
裂け目の縁から這い出してきた魔物。体長四メートル。蛇の体に、鉤爪が六本。頭部に角が三本。目が赤い。血の色の赤。千二百年間封じられていた存在の目。体表から腐った甘い匂いが漂っていた。冥渦の奥の匂い。地上の空気とは混ざらない、異界の匂い。
Aランク相当。一体。
だが、一体で終わらなかった。
二体目が縁から顔を出した。三体目が続いた。連続して出てくる。冥渦の口が広がるたびに、新しい個体が這い出してくる。
聖騎士団が動いた。聖属性の光が冥渦に向かって放たれた。金色の光。魔物の体に当たって、皮膚が焼けた。だが致命傷にはならない。上位種は聖属性への耐性が高い。通常の聖属性攻撃では、押し返すのが精一杯だ。
「行くぞ」
俺たちが前に出た。
火と雷を呼んだ。胸の奥で何かが燃える。世界が一瞬だけ止まる。二つの感覚が同時に走って、体の中で融合した。爆炎を一体目の魔物の頭部に叩き込んだ。角が砕けた。悲鳴。体が崩れた。
リーゼが二体目に突っ込んだ。剣が弧を描いて鉤爪を切り落とした。シアの白銀の光が三体目の動きを鈍らせている。メルティアの影が地面を走って、四体目の脚を拘束した。
水と風で退路を断った。冥渦の周囲に水の壁を巡らせ、風で渦を作って魔物の移動を制限した。土で冥渦の縁を固めた。裂け目の口が広がるのを、物理的に押さえた。
シアの聖属性が冥渦の瘴気を一時的に浄化した。白銀の光が黒い霧を押し返す。空気が少しだけ澄んだ。呼吸が楽になった。
だが、冥渦は閉じなかった。
魔物を倒した。瘴気を浄化した。縁を固めた。だが裂け目そのものは開いたまま。赤黒い脈動は止まらない。中から魔素が漏れ続けている。
応急処置でしかない。
ノアの声が低く響いた。「冥渦を閉じるには封印陣の修復が必要だ。魔物を迎撃して瘴気を浄化しても、傷口を塞がなければ根本的な解決にはならない」
分かっている。だが、修復にはエリシアの設計図がまだ届いていない。ユイの目の情報もまだ連携体制が整っていない。今できるのは、冥渦を「押さえる」ことだけだ。「閉じる」ことはまだできない。
冥渦の前に立って、裂け目を見下ろした。赤黒い脈動。底のない闇。千二百年前の傷。
俺の力で、この傷を直せるのか。
左腕の魔印が、首の付け根で脈打っていた。戦闘で複数属性を同時使用した影響。黒い紋様の先端が、数ミリ伸びた。襟の下から、覗きかけている。
◇
夜。基地のテントに戻った。体が重い。属性酔いの残滓が喉の奥に残っている。鉄の味。苦い。水で流し込んでも消えない。
テントの中にメルティアがいた。二つの携帯用の毛布の上に座っている。暗い。蝋燭の灯りだけ。テントの布を通して、外の焚き火の匂いが染み込んでくる。薪と、肉を焼く匂いと、夜の山の冷たい空気の匂い。
メルティアの赤い瞳が、俺の首元を見ていた。
「……伸びてるわ」
♪がない。声が低い。
「ああ。分かってる」
「分かってるなら、もう少し抑えなさい」
「抑えたら、あの場で誰かが死んでた。聖騎士団だけでは上位種を押さえきれない」
「…………」
メルティアが黙った。反論しなかった。反論できなかった。事実だから。冥渦から出てくる上位種は、聖騎士団の聖属性だけでは倒しきれない。カイトの全属性が必要だ。必要だから使う。使えば魔印が進む。進むと分かっていて使う。
メルティアの赤い瞳が、蝋燭の炎を映していた。炎が揺れている。瞳の中の炎が揺れている。何かを言いかけて、飲み込んでいる。千二百年前にも同じことがあった。同じ天秤の上で、別の人間が消耗していくのを見ていた。
何も言わなかった。二人とも。
テントの外で、風が吹いていた。山の風。冷たい。針葉樹の枝が揺れる音。遠くで聖騎士の見張りが歩く足音。冥渦の方角から、微かな低い唸り声が風に乗って届いてくる。大地の傷が呻いている。
冥渦は閉じない。魔物を叩いても叩いても、傷口は開いたまま。
封じる手段がなければ、この戦争に終わりはない。
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