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第56話 配置

「父上に掛け合いました」


 エリシアの声が、アリアの風読み通信を通じて届いた。少し歪んでいる。長距離通信の限界だ。だが、声の芯は明瞭だった。ラスティカのギルド酒場。朝の匂い——暖炉の灰と、昨夜の麦酒の残り香と、窓から入る春の風の匂い。その中で、アリアが目を閉じて風読みを中継している。


「カイトさんの配置先は、教会の聖騎士団の指揮下ではなく、ギルド本部の独立部隊として動けるようにしました」


 独立部隊。教会の駒ではなく、ギルドの駒として動く。マルクスの助言通り。エリシアが国王に直接交渉した結果だ。


「……ただし、最前線の冥渦封じに参加することは避けられません。配置先は、辺境と王都の中間の山岳地帯。封印陣が集中している地域です。複数の冥渦が開きかけていると報告されています」


「分かった。ありがとう、エリシア」


「お礼は不要です。……これは研究対象の保全でもありますから」


 最後の一文に、声が少しだけ柔らかくなっていた。研究対象の保全。この王女はまだ、自分の感情を学術用語に翻訳する癖がある。


 リーゼが碧い瞳で俺を見た。「研究対象の保全、ね。……正直な子だわ。不器用に正直な」。碧い瞳の角度が、エリシアに対する感情を微妙に変え始めていた。警戒から、もっと複雑な何かに。



 ◇



 王都に向かった。配置の正式な手続きを受けるため。


 ギルド本部。ヘルムートの執務室。銀髪のオールバック。灰色の目。黒のフロックコート。事務的な男。だが事務的であることが、今は有り難かった。感情ではなく手続きで物事を進める人間が、戦争の前には必要だ。


「ロスト・エデン。Aランク。ギルド本部直轄の独立部隊として、山岳地帯の前線に配置」


 ヘルムートが書類を差し出した。配置命令書。署名欄。インクの匂いが新しい。刷ったばかりの書類だ。


「数字を出してきなさい」


 ヘルムートの灰色の目が俺を見た。事務的。だが、その事務の中に、微かな何かが混じっていた。


「聖戦での実績は、戦後の交渉材料になる。……生きて帰ってきなさい。死んだ冒険者は数字を出せませんからね」


 ヘルムートなりの送り出し方だった。「気をつけて」とは言わない。「数字を出せ」と言う。だが、「生きて帰れ」をその後に添えた。この男がこの種の言葉を口にするのは珍しい。


 署名した。ペンが紙の上を走る音。小さな音だが、重い。この署名で、俺たちは聖戦の駒になる。自分で選んだ駒だが、駒であることに変わりはない。



 ◇



 ギルド本部の一階に降りた。酒場。聖戦前の冒険者たちで混んでいた。依頼を受ける者、装備を整える者、最後の酒を飲む者。空気に麦酒と鉄と革と汗の匂いが混じっている。戦争の前の匂い。


 入口の近くに、銀の鎧の女が立っていた。


 イレーネ・ヴァルトシュタイン。長い黒髪の編み込み。鋭い切れ長の目。左頬の刀傷。


「鉄騎の盟約も出るのか」


「当然よ。Aランクが出なくてどうするの」


 簡潔。イレーネらしい。言葉を削って磨いた簡潔さ。


「配置先は?」


「王都の北東。沿岸部の冥渦。……あなたたちとは別の戦線」


 別の戦線。同じ聖戦だが、会えるかどうかは分からない。戦争とはそういうものだ。


 イレーネが去り際に立ち止まった。切れ長の目がこちらを見た。


「生きて帰りなさい。戦争で死ぬのは、冒険者の本分じゃない」


 ヘルムートと同じ言葉。「生きて帰れ」。だが、声の色が違った。ヘルムートは事務的に言った。イレーネは、剣を振り続けてきた人間として言った。戦場を知っている声。


「あの子にも伝えて。シュタイン家の剣、戦場で折るんじゃないわよ」


 リーゼのことだ。名前を出さずに「あの子」。だがリーゼにしか伝わらない言葉。シュタイン家の剣。イレーネとリーゼの間にある、剣で繋がった先輩と後輩の絆。


「伝える」


 イレーネが背を向けた。銀の鎧が酒場の人混みに消えていった。



 ◆



 同時刻。王都。大聖堂。


 最上階の執務室。窓から夕日が差し込んでいた。金色の光が、金色の法衣を照らしている。


 ヴィクトル・ルミエールが机に向かっていた。


 机の上に、大陸の地図。地図の上に、小さな駒が置かれている。白い駒が聖騎士団。灰色の駒がギルドの冒険者。赤い駒が冥渦の位置。


 ヴィクトルの指が、山岳地帯に置かれた灰色の駒に触れた。小さな駒。「ロスト・エデン」と書かれた札がついている。最前線の山岳地帯。封印陣が最も集中し、冥渦が最も多く開きかけている地域。


「……最前線ですか。大変でしょう。お気をつけて」


 穏やかな声。誰もいない執務室に向けて呟いた。穏やかな微笑み。白檀の香りが漂う執務室。蝋燭の灯りが金色の法衣を照らしている。


 指が、駒の上で止まった。


 カイトの名前をなぞった。ゆっくりと。爪の先端で、紙の札を撫でるように。


 その指の動きに、温度がなかった。


 穏やかな声は残っていた。微笑みも残っていた。だが、指だけが冷たかった。駒を動かす指。盤上の駒を配置する指。計算された位置に、計算された駒を置く指。


 窓の外の夕日が沈んでいく。大聖堂の影が王都の街並みに長く伸びていた。教会の影が、街を覆っている。



 ◇



 ギルド本部を出た。春の夕暮れ。王都の大通り。花売りの屋台から甘い花の匂いが流れてきた。通りすがりに、屋台の水差しから一杯もらった。冷たい水が喉を通った。甘くはない。だが、綺麗な味がした。


 リーゼが隣を歩いていた。碧い瞳が前を向いている。


「イレーネが、お前に伝えてくれと」


「何を」


「シュタイン家の剣、戦場で折るんじゃないわよ、と」


 リーゼの碧い瞳が一瞬だけ広がった。それから、小さく笑った。口元だけの笑い。


「……折らないわよ。折れるような剣を使っていないもの」


 強い言葉だった。シュタイン家の矜持。没落しても錆びない剣。折れない剣。リーゼの碧い瞳に、以前にはなかった光が宿っていた。戦争に臆していない。だが、軽んじてもいない。この剣を何のために使うか、分かっている目。


 メルティアが赤い瞳で空を見た。夕焼け。春の空に広がる橙と紫のグラデーション。


「……駒が並んだわね」


 声に♪がなかった。だが、次の瞬間、小さく♪をつけた。


「でも、駒は自分で動けるのよ♪ 盤上を歩く足は、自分のものだもの」


 メルティアの♪。空元気ではなかった。確認だった。自分たちは駒だが、自分の意志で動く駒だ。操られるのではなく、利用されるのでもなく、自分で選んで動く。


 盤上の駒が動き始めた。教会の駒も。王家の駒も。そして、俺たちも。


 だが、駒の足は自分のものだ。


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