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第55話 聖戦の布告

 早馬が南門を駆け抜けた。


 朝の通りに蹄の音が響いた。石畳を叩く鋭いリズム。ラスティカの住人たちが足を止めて振り返った。早馬が街の中を走ること自体が珍しい。辺境の小さな街に、王都からの急使が来ることは、年に数回あるかないかだ。


 馬がギルドの前で止まった。騎手が転げ落ちるように降りて、ドルクの前に羊皮紙を差し出した。蜜蝋の封印。王家の紋章。国王の勅令。


 俺たちは酒場のテーブルから立ち上がった。ドルクが封を割って、羊皮紙を広げた。朝の酒場に、焼きパンの匂いと、騎手が連れてきた馬の汗の匂いが混じっていた。


 ドルクが読み上げた。低い声。一字一句を噛みしめるように。


「各地で封印陣の崩壊が確認された。冥渦の出現が迫っている。国王は教会に対し、聖戦の権限を一時的に認める。Aランク以上の冒険者は、ギルド本部の指揮下で封印陣の防衛・冥渦の封じ込めに参加すること」


 聖戦。


 その言葉が、朝の酒場に落ちた。酒場にいた冒険者たちの手が止まった。ジョッキを持ったまま固まっている者がいた。パンを頬張ったまま動けなくなっている者がいた。


「聖戦か」


 ドルクが羊皮紙を畳んだ。顎髭を撫でた。禿頭に朝日が当たっている。


「……辺境にまで来たか」


 声が重かった。ドルクは辺境のギルドマスターとして、二十年以上この街を守ってきた。魔物の討伐。冒険者の管理。地方ギルドの運営。だが「聖戦」は別だ。国家規模の戦争。辺境の一ギルドマスターの管轄を超えている。


「カイト。お前たちはAランクだ。参加義務がある。……拒否は難しいぞ」


「分かってる」



 ◇



 酒場の隅に移動した。四人で。ドルクが周囲に冒険者を近づけないように気を配ってくれている。テーブルの上に麦酒のジョッキが四つ並んでいたが、誰も飲んでいない。麦酒の酵母の匂いが、飲まれないまま立ち上っていた。


「聖戦。教会が主導する大規模作戦。だが、王権の認可という形を取っている」


 リーゼが碧い瞳で羊皮紙を読み返していた。法的な文面を精査している。


「教会が独断で動くのではなく、国王が許可した範囲で動く構造。王の裁定は生きている。カイトへの直接浄化の禁止は維持されたまま。……教会は聖戦の名の下で権力を取り戻そうとしているけれど、完全な自由行動ではない」


 リーゼの碧い瞳が、羊皮紙から上がった。


「でも、気をつけなさい」


 声が低くなった。碧い瞳の奥に、個人的な色が浮かんでいた。


「戦争ね。……父が冤罪で没落したのも、前の戦争の混乱の中だった。戦争は権力者に利用される。混乱に紛れて、証拠を隠し、敵を排除し、都合の悪い人間を消す。……気をつけないと、戦場で戦うだけでなく、戦場の外でも殺される」


 リーゼの父。シュタイン家の没落。前の戦争の混乱に紛れた冤罪。リーゼの過去が、今の状況と繋がった。リーゼにとって「戦争」は、敵を倒すだけの話ではない。味方の中にも敵がいる構造を、幼い頃に学んでいる。


 シアが紫の瞳を俯けた。「教会と一緒に戦うことになるんですね。……私を追放した教会と」。小さな声。だが、前のように震えてはいなかった。覚悟に近い色。


 メルティアが赤い瞳で窓の外を見ていた。春の空。千二百年前にも、同じ言葉を聞いたのだろう。「聖戦」。あの時は天使として聞いた。今は悪魔として聞いている。


「……歴史は繰り返すのかしら」


 声に♪がなかった。だが、諦めの色もなかった。疲れた覚悟。千二百年分の既視感と、それでも動き続ける意志の間にある、名前のない温度。



 ◇



 午後。アリアが酒場に駆け込んできた。亜麻色の髪が乱れている。眼鏡がずれている。息が荒い。外の風の匂いを纏っている。丘陵の若草と、風読みで長距離通信をした後の、魔力の残滓の匂い。甘くて薄い、風属性の気配。


「カイト。風読みで通信が届いた。……王都から。マルクスさんから」


 マルクス。銀縁の眼鏡の男。審問局第三席。あの男が、王都から情報を送ってきた。アリアの風読みを使って。直接の書簡ではなく、風読み通信を使ったということは、急を要する内容だということだ。


 アリアが伝えた。マルクスの言葉を、風読みで受け取った通りに。


「『聖戦の布告が出ます。灰原カイトは最前線に配置される予定です。これは局長の意向です。拒否はできませんが、配置先を選ぶ余地はあるかもしれません。エリシア殿下を通じて、国王に直接交渉することを推奨します』」


 ヴィクトルの意向。最前線への配置。穏やかな微笑みの裏で、あの男は駒を動かしている。聖戦の大義の下で、カイトを消耗させる。王の裁定で直接浄化は封じられている。だが「聖戦の最前線で冥渦と戦い続ければ、魔属性を使わざるを得ない。魔印が進行する。いずれカイト自身が浄化を望む」。それがヴィクトルの計算だ。


 マルクスはそれを知っていて、俺に教えてくれている。審問局の人間が、審問の対象に情報を流している。条件付きの協力が、もはや内通に近い。


「アリア。マルクスへの返信はできるか」


「風読みでなら。……短い通信なら、今日中に届けられる」


「『忠告に感謝する。エリシア殿下に連絡を取る。数字は嘘をつかない』と」


 アリアが頷いた。最後の一文の意味は分からなかったかもしれない。だがマルクスには伝わる。「お前の言葉を覚えている」という合図だ。


 メルティアが赤い瞳で俺を見ていた。


「どうするの」


「聖戦に参加する。拒否は現実的じゃない。だが、教会の駒にはならない。エリシアを通じて配置先を交渉する。独立部隊として動く。教会の指揮下ではなく、ギルドの指揮下で」


「……賢い選択ね♪」


 ♪が戻った。だが、声の奥に「気をつけて」が透けていた。メルティアの♪は、時に心配の裏返しだ。


 エリシアへの連絡書状を、アリアの風読みで送った。「聖戦の配置について、国王陛下に交渉を。独立部隊としての参加を希望します」。短い。だがエリシアには十分伝わる。あの王女は少ない言葉から多くを読み取る知性がある。



 ◇



 夕方。酒場で麦酒を飲んでいた。


 聖戦の布告は、ラスティカの街全体に広がっていた。酒場の空気が緊張していた。冒険者たちが低い声で話している。「聖戦か」「冥渦って何だ」「教会が動くのか」「Aランクは全員招集だろ。Bランクは?」。


 ドルクが酒場の中央に立って、説明していた。「Aランク以上は参加義務。Bランクは志願制。Cランク以下はラスティカの防衛に回る。……辺境は辺境で守らなきゃならない」。ギルドマスターの声。低くて太い声。冒険者たちが聞いている。


 俺は酒場の隅で麦酒を啜っていた。苦い味が喉を通る。ラスティカの麦酒。王都のものより冷たくて苦い。この味を、戦場に持っていくことはできない。


 窓の外を見た。ラスティカの夕暮れ。赤い瓦に夕日が映っている。丘陵の向こうに夕焼けが広がっている。春の空。穏やかな空。


 この空の下で、千二百年前と同じ戦争が始まろうとしている。


 聖戦が始まる。千二百年前の戦争の続きが、今、始まろうとしている——

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