第54話 千二百年の秘密
「お前、あの封印陣を知っていたな」
宿に戻った夜だった。リーゼとシアが隣の部屋に下がった後、メルティアと二人。蝋燭が一本。暖炉の火は落としてある。春の夜だが、空気はまだ冷たい。窓の外から虫の声と、遠くの酒場の喧噪が微かに聞こえている。蝋燭の蜜蝋の匂いが、暗い部屋に漂っていた。
メルティアは窓辺に立っていた。赤い瞳が俺を見た。
長い沈黙。
蝋燭の炎が揺れた。一回。二回。三回。三回目が揺れ終わるまで、メルティアは口を開かなかった。
「……知っているわ」
声が小さかった。♪がない。軽さがない。千年の存在が、千二百年前の記憶を開く時の声。
「あの封印陣を作ったのは、千二百年前。聖魔戦争の末期。聖と魔の勢力が激突して、大地に亀裂が走った。亀裂は拡大して、黒い裂け目になった。裂け目の奥から、封じられていた古い存在が溢れ出しかけた。……それが、冥渦」
冥渦。昨日の地下墓地で見た亀裂。あの黒い裂け目が、千二百年前にも存在していた。
「冥渦を封じるために、天使と人間が協力した。天使が聖属性で結節点を構成して、人間の魔法使いが調律点に立って均衡を取った。……その方法で、大陸中の冥渦を封印した。封印陣は二十以上。各地に散らばっている」
「天使が封印を作った。……お前がなぜそれを知っている?」
メルティアの赤い瞳が、蝋燭の炎を映して揺れた。炎の形が瞳の中で歪んでいた。
「……私よ。千二百年前、私は天使だった」
言葉が、暗い部屋に落ちた。
天使。
メルティアが。赤い瞳の。千年の悪魔が。かつて天使だった。
「……封印陣の設置部隊にいたの。各地の冥渦を封じるために、大陸を回っていた。結節点を聖属性で構成する作業。……私の担当だった」
メルティアの声が淡々としていた。感情を抑えているのではなく、感情が遠すぎて届かない声。千二百年前の記憶は、メルティアの中で「過去」ではなく「別の人間の物語」のように遠くにある。
「天使が、なぜ悪魔に」
聞かなければならなかった。聞きたくない部分でもあった。
メルティアの赤い瞳が、蝋燭から俺に向いた。目が揺れていた。微かに。だが確かに。
「……それは、今は言えない」
声が震えていなかった。震えてはいなかったが、声の奥に何かが詰まっていた。言えないのではなく、言いたくない。言えば、蓋をしていたものが溢れ出す。今ここで溢れさせたら、収拾がつかなくなる。メルティアはそれを知っている。千年の間、蓋をし続けてきた。
「……分かった。無理に聞かない」
「ありがとう」
短い言葉。だが、その二文字に、千年分の感謝が込められていた。聞かないでくれてありがとう。今は聞かないでくれてありがとう。いつか話す。でも今夜は、まだ。
外套の中から、ノアの声が低く響いた。
「……そうか。お前が千年以上の存在だとは知っていたが、天使だったとは」
ノアの声にも、驚きがあった。千年の魔導書が、千年の悪魔の正体に驚いている。だがノアの驚きは短かった。理解が追いついた。
「道理で封印陣の構造に詳しいわけだ。お前が設置に関わったのなら、千二百年前の封印の設計を知っている。劣化の仕組みも、修復の方法も」
メルティアが小さく頷いた。
テーブルの上に紅茶が二つ残っていた。リーゼが淹れてから部屋を出ていったもの。もう冷めている。口をつけた。ぬるい。苦い。だが、喉を通る液体の温度が、頭を冷やしてくれた。
◇
「知っているわ。封印陣の構造は六芒の変形。六つの結節点が円形に配置されて、中心に調律点がある。結節点は聖属性で構成されている。……千二百年の間に、結節点の聖属性が風化して、紋様の線が途切れ始めている。それが今の崩壊の原因」
メルティアが窓辺から離れて、テーブルの前に座った。紅茶に手を伸ばしたが、口はつけなかった。冷めた紅茶を手で包んで、両手の温度を確認するように。悪魔の体温は人間より高い。冷めた紅茶は、メルティアの手のひらより冷たい。
「修復できるのか」
核心の問い。今夜の話の、最も重要な一点。
メルティアの赤い瞳が、俺を見た。まっすぐに。揺れが止まっていた。
「……理論上は。封印陣の結節点に聖属性を再注入して、調律点で聖と魔の均衡を取り直せば、封印は修復できる。構造は分かっている。手順も分かっている。千二百年前に自分で作ったものだから」
「だが?」
「だが、私は今、悪魔よ。聖属性を扱えない。天使だった頃に作った封印を、悪魔の力では直せない。修復するには——」
メルティアの赤い瞳が、俺の左腕を見た。袖の下の魔印。黒い紋様。首の付け根まで到達した、悪魔の契約の証。
だがその左腕は、同時に全ての属性を扱える。聖も。魔も。
「——あなたの力が要る」
俺の力。全属性使い。聖と魔の両方を同時に制御できる存在。千二百年前の封印は、天使の聖属性と人間の調律で作られた。今、天使は悪魔に堕ちている。だが、聖も魔も使える人間が一人いる。
「俺が調律点に立てばいいのか」
「ええ。結節点にシアちゃんの聖属性を注入して、調律点であなたが聖と魔の均衡を取る。……蝕に近い力が必要よ。聖と魔の同時制御。あなたにしかできない」
「代償は」
メルティアの赤い瞳が、一瞬だけ暗くなった。
「……蝕を使えば、魔印が進む。一回の修復で、どれだけ進むかは分からない。でも、進む。確実に」
世界を直す力が、自分を壊す力でもある。
封印を修復するたびに、魔印が進む。冥渦を封じるたびに、俺の残り時間が縮む。
天秤だ。世界と俺の天秤。
だが、天秤の傾く方向は、最初から決まっていた。ユイがいる。ラスティカがいる。守るべきものが、天秤の片方に載っている。もう片方に載っているのは、俺の命だけだ。
「やる」
短く言った。メルティアの赤い瞳が、俺を見つめていた。蝋燭の光が揺れている。赤い瞳の中で、炎が小さく震えていた。
メルティアは何も言わなかった。頷かなかった。否定もしなかった。ただ、窓辺に立ったまま、蝋燭の光の中で俺を見ていた。
赤い瞳の奥に、何が映っていたのか。千二百年前の天使の記憶か。調律点に立った人間の男の姿か。それとも、今、同じ場所に立とうとしている俺の姿か。
聞かなかった。今夜は、聞かない。
蝋燭の炎が四回目に揺れた時、メルティアが小さく微笑んだ。♪がない。だが微笑みだった。悲しい微笑み。
「紅茶、淹れ直すわ」
テーブルの冷めた紅茶を下げて、暖炉に火をつけ直した。小さな炎が薪に移って、部屋が少しだけ温かくなった。薪の爆ぜる音が、暗い部屋に響いた。
メルティアが紅茶を淹れた。温かい湯気が立ち上る。紅茶の匂い。いつもの匂い。千年のこだわりの、普通の紅茶。
二つのカップがテーブルに並んだ。向かい合って座った。さっきまで天使と悪魔と封印の話をしていた二人が、紅茶を飲んでいる。奇妙な光景。だが、悪くない。
◇
千二百年の秘密が、一つだけ開いた。
だが、その奥にはまだ扉があった。メルティアの中の、もっと深い場所。天使が悪魔に堕ちた理由。千二百年前の男。メルティアの赤い瞳が、紅茶の湯気の向こうで揺れていた。いつか開く扉。だが今夜は、紅茶が温かいだけで十分だった。
蝋燭の炎が、五回目に揺れた。部屋に影が伸びて、縮んで、また伸びた。
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