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第53話 大地の悲鳴

 ドルクが南門で待っていた。


 朝、ミルフィ村から戻った翌日の早朝。ギルドの酒場に入る前に、南門の石柱の横でドルクが腕を組んで立っていた。禿頭に朝露が光っている。待っていた時間の長さが、その露の量で分かった。朝の空気に、焼きたてのパンの匂いが混じっていた。南門の近くのパン屋が焼き始めたばかりの時間。その香ばしい匂いと、ドルクの緊張した表情の組み合わせが、妙に不釣り合いだった。


「カイト。緊急だ」


 ドルクの声が低かった。挨拶を抜いた。それだけで事態の重さが伝わった。


「嘆きの地下墓地。入口から黒い霧が噴き出している。昨夜、見回りの冒険者が発見した。……地下から何かが漏れている」


 嘆きの地下墓地。


 嘆きの将軍を倒した場所。辺境に来て間もない頃の、最後の大きな戦場。あの広大な地下空間に、封印の亀裂があったことは知っていた。だが「漏れている」という段階から、「噴き出している」という段階に来たということだ。


「行く」


 即答した。リーゼが碧い瞳を鋭くした。メルティアが赤い瞳を細めた。シアが紫の瞳を固くした。四人とも、選択肢を考えなかった。答えは一つだけだった。



 ◇



 嘆きの地下墓地の入口に着いた時、朝日が昇りかけていた。


 だが、入口の周囲だけ、朝日が届かなかった。


 石造りの入口から、黒い霧が立ち上っていた。薄い霧ではない。濃い。煙突から昇る煙に近い密度で、ゆっくりと上空に上がっている。周囲の地面の草が、灰色に変色していた。入口から半径十メートル以内の植物が、全て枯れている。瘴気の影響範囲。


 匂いがあった。地下水脈で嗅いだ金属的な焦臭。だが濃度が違った。あの時の五倍はある。鼻を刺すような鋭さ。息を吸うと、肺の奥に金属の味が張り付く。


 左腕の魔印が反応した。鎖骨の上の黒い紋様が、微かに脈を早くした。同じ種類の魔素。共振している。


「入る」


 松明を掲げて、石段を降りた。四人と、外套の中のノア。


 地下墓地の内部は、前とは空気が違った。前は湿った古い石と、黴と、遠い水音の静寂だった。今は——空気が動いている。風ではない。もっと粘つく流れ。瘴気が通路を這っている。松明の炎が、普通の火より暗く燃えた。聖属性を含む酸素が薄いのか、それとも魔素が濃いせいで火が歪んでいるのか。


 シアが白銀の光を展開した。周囲の瘴気を薄める。聖属性の膜が四人を包む。松明の炎が少しだけ明るくなった。


 最深部に向かった。嘆きの将軍と戦った広間。あの時は地底湖のような広い空間だった。今は——。



 ◇



 広間の中央に、亀裂が走っていた。


 幅一メートル。長さ十メートル。床の石畳を縦に裂いて、奥に黒い闇が口を開けていた。亀裂の奥から赤黒い魔素が噴出している。霧のように、火山の噴煙のように。上に向かって絶え間なく吹き上がっている。ここの匂いは、入口よりも更に濃い。金属的な焦臭の奥に、もう一つの匂いが混じっていた。古い血の匂い。千二百年前に流された誰かの血が、今になって蘇ったような。


 王都の地下水脈で見たものと同じ構造。


 だが、違う点があった。あの時の亀裂は、封印陣の紋様が割れ目の縁に残っていた。赤黒い亀裂の両側に、青白い線の痕跡があった。封印が「綻んだ」状態。


 今、この亀裂の縁には、青白い線が残っていなかった。


 何もない。ただ黒い裂け目だけ。封印陣の紋様が、完全に消失している。


「……封印が」


 声が出た。自分で聞いていて、声が震えていることに気づいた。


「綻んだんじゃない。壊れた。完全に」


 リーゼが碧い瞳で亀裂を見ていた。剣の柄に手をかけている。何かが出てきた時の反射的な警戒姿勢。シアが白銀の膜を強化する。メルティアが——沈黙していた。


 亀裂を見つめている。赤い瞳の中に、光が映っていた。赤黒い魔素の光。だが、それを映している瞳の色が、いつもとは違った。驚きではない。恐怖でもない。知っている、という目だった。この光景を、前に見たことがある目。


 千年の悪魔が沈黙している。理由がある。


 だが今は、それを問う時ではなかった。


 頭の中で、線が繋がった。


 アリアが言っていた魔素の風。半年前の二倍以上に強くなっている南東からの風。霧喰いの異常発生(南東の山脈から生態系が押し出されている)。エルデンのレヴナントの時に感じた暗い気配。王都の水棲魔物(地下水脈)。全部、南東からの風と同じ方向から来ている。


 そして今、この亀裂。


 全部繋がっている。


「……これが、原因だ」


 声が出た。


「封印陣の崩壊。ラスティカの異常発生も、王都の水棲魔物も、全部この種類の亀裂から漏れた魔素が原因だ。大陸中の封印陣が同時に劣化している。同時に壊れ始めている」


 外套の中から、ノアの低い声が響いた。


「その通りだ」


 短い肯定。千年の魔導書が、俺の推理を認めた。


「お前が気づいた通り、封印陣の崩壊は大陸規模で起きている。王都だけではない。ラスティカだけではない。大陸中の主要な封印陣が、千二百年の経年劣化で同時に寿命を迎えている。……そして、ここが最も進行している」


「進行している、というのは」


「完全崩壊だ。ここの封印は、もう一度綻ぶ段階を終えている。次の段階は——冥渦が開く」


 冥渦。


 エリシアの書状にはなかった言葉。メルティアが一度だけ口にした言葉。「聖と魔が衝突して大地に亀裂が走った。それを封じるために作られた陣。その亀裂——冥渦」。千二百年前の聖魔戦争で封じられた「大地の傷」。


「冥渦が開けば、何が起きる」


「上位の魔物と悪魔が人間界に溢れ出す。封じられていた存在が解放される。この亀裂一つから、直径数十メートルの裂け目が開く。その裂け目から出てくるのは、アリアの風読みが感知している程度の魔物ではない。……もっと大きな存在だ」


「いつ開く」


「数ヶ月。早ければ一ヶ月以内」


 一ヶ月。


 数字が落ちた。プラットフォームの上の重い荷物のように。


 ラスティカから徒歩半日の場所で、一ヶ月以内に冥渦が開く。ラスティカの街が、ミルフィ村が、ユイが、全部その射程圏内。



 ◇



 メルティアの方を見た。


 まだ亀裂を見つめていた。赤い瞳が、赤黒い光を映している。両手が微かに握りしめられている。爪が掌に食い込んでいるのが、指の白さで分かった。


「メルティア」


 呼んだ。だが、すぐには答えなかった。


 数秒経って、ようやく赤い瞳がこちらを向いた。長い沈黙の後の目。何かを思い出していた目。遠くを見ていた目が、やっと現在に戻ってきた目。


「……ごめんなさい。少し、考えごとをしていたわ」


 いつもの声に戻そうとしていた。だが、♪がなかった。軽さがなかった。普段の演技が、今は機能していなかった。


「この亀裂を知っているのか」


 メルティアが一瞬、言葉を詰まらせた。そして、小さく答えた。


「……ええ。知っているわ」


 シアが息を呑んだ。リーゼの碧い瞳が鋭くなった。


「だが、ここで話すことじゃない。宿に戻ってから、話すわ。……今、ここで話すと、私の声がこの亀裂に届く気がする。それは、よくない」


 声が届く、という表現。千年の悪魔が、声の届き方に気を使っている。亀裂の奥の何かに聞かれることを警戒している。


 俺は頷いた。「戻ろう」


 振り返って歩き出した。亀裂の方を見ずに、通路を逆に歩いた。だが、背中に視線を感じた。亀裂から誰かが見ている。そんな感覚。魔素の濃度が高すぎて、感覚が過敏になっているのかもしれない。それとも、本当に何かが見ているのかもしれない。


 地上に出た。朝日が完全に昇っていた。空が青い。春の光が石段の入口に差し込んでいる。地下から地上に戻った瞬間、肺の中の金属の味が消えた。代わりに、春の若草の匂いが戻ってきた。


 同じ世界のはずなのに、地下と地上で空気の質が違う。大地の内側が、腐り始めている——



 ◇



 ラスティカに戻る道中。誰も口を開かなかった。


 春の丘陵を馬車で進む。若草の匂いと、土を耕し始めた農地の匂い。普段なら心地よい匂いのはずだった。だが、今日は鼻の奥にまだ金属的な焦臭が残っていた。地下で吸い込んだ瘴気の残滓が、粘膜に張り付いて取れない。春の匂いと、地下の腐りかけた匂いが、頭の中で混じり合っていた。


 リーゼが碧い瞳で地平線を見ていた。戦術を組み立てている目。だが、組み立てる情報が足りない。今は判断を保留している。


 シアが紫の瞳を俯けて歩いていた。聖女として、何かを感じ取っている。聖属性の感覚で、地下の亀裂の質を理解しかけている。だがそれが何なのか、シアにもまだ言語化できない。


 メルティアは最後尾を歩いていた。赤い瞳が、来た道を何度も振り返っていた。地下墓地の方角を。まるで、何かに呼ばれているかのように。


 俺は先頭を歩いていた。左腕の魔印が、鎖骨の上で脈打っていた。亀裂の魔素と共振した時の、あの感覚が残っている。


 一ヶ月。


 冥渦が開くまでの残り時間。


 守らなければならないものが、たくさんある。ユイ。ラスティカ。ミルフィ村。そして、その先に広がる世界。


 だが、守る手段が分からなかった。分かっているのは、メルティアが何かを知っているということだけ。千二百年前に、同じ構造を見た目をしていた。


 振り返って、メルティアを見た。赤い瞳が地平線の向こうを見ていた。千二百年前のどこかを。


 千年の悪魔が、沈黙していた理由——


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