第52話 ユイの春
ミルフィ村は、花の匂いに包まれていた。
翌朝、ラスティカを馬車で発った。丘陵を越える半日の道のり。馬車の中で乾燥した干し肉を齧った。塩気の強い味。長旅の常備食。喉を通る間に、外の景色が冬枯れから春の若草に変わっていった。
村の入口で馬車を降りた瞬間、口の中の塩気が春の空気に洗い流された。冬に来た時とは別の村に見えた。雪に閉ざされていた畑が春の若草で覆われていて、家々の軒先に小さな花が植えられている。野花の甘い匂いと、土の匂いと、村の煙突から立ち上る薪の匂いが、空気の中で重なっていた。
半年ぶりだった。
診療所に向かった。村の中心の、白い壁の小さな建物。前は雪で屋根が重く沈んでいたが、今は屋根の雪が消えていて、壁の白さが春の日差しに眩しかった。窓辺に小さな影が見えた。
窓辺に、花瓶があった。
硝子の小さな瓶に、野花が活けてあった。黄色い花が三本。白い花が二本。茎の長さがバラバラで、揃えるのが下手な活け方。だが、それが良かった。誰かが手で摘んで、自分で活けた花だ。技巧ではなく、心で活けた花。
扉を開けた。
ユイが振り返った。
「お兄ちゃん」
立っていた。
ベッドではなく、窓辺に。両手に小さな花瓶を持って。半年前の冬には、ベッドから起き上がるのもやっとだった少女が、今は窓辺で花を活けている。痩せた体は変わらない。紫がかった灰色の瞳も変わらない。だが、頬に微かな赤みがあった。生きている人間の頬の色。冬に来た時の青白さが消えていた。
「……ユイ」
声が掠れた。
ユイが花瓶をテーブルに置いて、駆け寄ってきた。歩き方がしっかりしている。ふらついていない。半年前は手を引かなければ歩けなかった。今は自分の足で走れる。
抱きとめた。
ユイの体は軽かった。子供の体重。だが、温かい。冬の凍えた手とは違う。生きている人間の温度。胸の奥で何かが熱くなった。火属性を呼んだ時の熱とは違う。もっと優しい熱。
「ただいま」
「お帰り、お兄ちゃん」
短い言葉だった。それで十分だった。
◇
シアがユイの体調を診ていた。
白銀の聖属性を手のひらから流す。ユイの体に触れさせる。シアの紫の瞳が集中している。診察用の聖属性。長く続けていない。短い時間で全身を確認している。
終わって、シアが俺を見た。
「カイトさん。少し外で」
二人で診療所の外に出た。村の通りに春の風が吹いている。野花の匂い。シアが小さく息を吐いた。
「ユイちゃんの体調は良いです。普通に歩けます。食事も普通に取れています。睡眠も安定しています。……外見上は、ほぼ健康な少女と変わりません」
「ほぼ、か」
「ええ。ほぼ、です。……ただ、私の聖属性で見ると、体の中で起きていることが、普通の魔素病の患者さんとは違うんです」
シアが言葉を選んでいた。紫の瞳が地面を見ている。
「『変換』の分析が進みました。ユイちゃんの体の中の魔素は、蓄積していません。代わりに、別の形に変わっています。聖属性に近い形に」
「聖属性に?」
「はい。完全な聖属性ではありません。聖と魔の中間にある何か。でも、限りなく聖に近い。……ユイちゃんの体は、魔素を取り込んで、聖に近い何かに変えているんです。まるで」
シアが言葉を切った。それから、小さく言った。
「……浄化炉のような」
浄化炉。聖属性を生み出す装置。教会が聖水を作るために使う、巨大な施設。それが、十四歳の少女の体の中にある。
「シア。それは、安全なのか」
「分かりません。今の段階では、ユイちゃんの体に害は出ていません。むしろ、体内の魔素が変換されることで、魔素病の症状が抑えられているように見えます。普通の魔素病が『魔素の蓄積』なら、ユイちゃんは『魔素を変換することで蓄積を回避している』」
「それは、治っているということか」
「治っているわけではありません。変換が止まれば、症状が一気に進む可能性があります。……それに」
シアの紫の瞳が、診療所の方を見た。窓辺のユイ。花瓶を眺めているユイ。
「変換した『聖に近い何か』が、ユイちゃんの体の外にも、微量ですが放出されているように感じます。ユイちゃんの周囲の空気が、ほんの少しだけ、聖属性を帯びている」
空気が、聖属性を帯びている。
ユイの周囲だけ、世界の質が違うということだ。十四歳の少女が、知らないうちに、自分の周りの空気を変えている。
「カイトさん。これは……まだ確証はありません。でも、ユイちゃんの体は、私たちが思っている以上に特別かもしれません」
シアの声が震えていた。聖女として、目の前の現象を説明できない不安。だが、不安だけではない。何かを発見しかけている興奮。シアの中で、二つの感情が混ざっていた。
「分かった。報告ありがとう。……ユイには、まだ言わないでくれ」
「はい。ユイちゃんが不安にならないように」
◇
診療所に戻った。
ユイがテーブルの椅子に座っていた。花瓶の前で、花の角度を直している。黄色い花の一本が傾いている。それを真っ直ぐにしようとして、また傾いて、結局そのままにした。
リーゼが部屋の隅で立っていた。碧い瞳がユイを見ている。普段の戦闘モードの目ではなかった。柔らかい目。ユイに直接話しかけることはしないが、距離を取って見守っている。リーゼは子供との接し方が得意ではない。だが、邪魔をしないことが優しさだと知っている。
メルティアがテーブルの向こうの椅子に座った。赤い瞳でユイを見て、微笑んだ。
「ユイちゃん、お久しぶり♪ 花、上手に活けたのね」
「えへへ。下手だけど」
「下手じゃないわ。ちょっと曲がってる方が、可愛いのよ」
「ほんと?」
「ほんと♪」
メルティアの♪に、いつもの軽さがあった。だが、赤い瞳の奥で、何かを確認していた。ユイの周囲の空気を「視て」いるのかもしれない。シアが言った「聖属性を帯びた空気」を、千年の悪魔の感覚で確認していた。
俺はユイの隣の椅子に座った。
「ユイ。花、誰に教わったんだ?」
「シアちゃんが少しだけ。あとは自分で」
窓から差し込む春の光が、花瓶を通って机の上に虹色の小さな模様を作っていた。ユイの紫がかった灰色の瞳が、その模様を見ている。光の模様の中に、ユイの瞳の色が映って、薄い紫のグラデーションが机の上に広がっていた。
穏やかな時間だった。
半年ぶりに会う妹と、暖炉の代わりに春の日差しがある診療所で、花瓶を眺めている時間。冬に来た時には、ユイが立って花を活ける姿は想像できなかった。今、それが目の前にある。
左腕の魔印が、襟の下で静かに脈打っていた。首の付け根。黒い紋様の先端が、襟の縁に触れそうな位置。意識しないと忘れていられる。意識すれば、灼熱感がある。今は、意識しないでいたい。
だが——。
ユイの紫がかった灰色の瞳が、俺を見た。
花を見ていた瞳が、不意に俺の首元に動いた。一瞬だけ。すぐに視線が逸れた。だが、その一瞬で十分だった。ユイは、視ていた。
「お兄ちゃん」
ユイの声が、小さかった。
「首のところ……」
言いかけて、口を閉じた。続きを言わなかった。何を言いかけたのか、聞かなくても分かった。「黒いの、伸びてるね」。「首まで来てるね」。ユイの目には、襟の下の魔印が視えていた。布越しに。視覚ではない別の感覚で。
俺は何でもない顔をした。
「何でもない。大丈夫だ」
嘘。
いつもの嘘。半年前にも、一年前にも、二年前にも、同じ嘘を言ってきた。ユイの病状を「大したことない」と言い、自分の傷を「掠り傷だ」と言い、悪魔契約のことを「なんとかなる」と言ってきた。嘘の積み重ねで、兄妹の関係を保ってきた。
ユイが俺を見た。
紫がかった灰色の瞳に、いつもの「分かっているけど追及しない」の色があった。けれど、その奥に、別の色も微かに浮かんでいた。心配。それと、もう一つ。何か、自分にできることがあるんじゃないか、という色。
「……うん」
ユイが頷いた。短く。それ以上、何も言わなかった。
花瓶の黄色い花が、春の風に微かに揺れた。窓を開けていないのに、揺れた。メルティアの赤い瞳が、その花の動きを見ていた。風がないところで花が揺れる。空気が動いた。聖属性を帯びた、ユイの周囲の空気が。
メルティアの赤い瞳に、複雑な色が浮かんだ。驚きと、納得と、何かを思い出している色。千二百年前に見たことがある光景なのか。それとも、今ここで初めて見るものなのか。メルティアは何も言わなかった。
◇
夕方。ミルフィ村を出て、ラスティカへ戻る馬車の中。
ユイが見送ってくれた。診療所の入口に立って、手を振っていた。痩せた体。だが、立っていた。そして手を振っていた。半年前にはできなかったこと。
馬車が丘を越えると、村が見えなくなった。
メルティアが赤い瞳で窓の外を見ていた。夕日が西の山に沈みかけている。空が橙色に染まっている。
「あの子の体の中で、起きていることは……私にも、よく分からないわ」
声が小さかった。♪がない。
「聖属性を生み出している。十四歳の人間の体で。普通の魔素病の患者には、絶対に起きないこと。……あの子は、何かに『なろうとしている』のかもしれない」
「何に」
「分からない。でも、十四歳の少女がなるべきものではない、何かに」
メルティアの赤い瞳が、夕日を映していた。橙色に染まった瞳。千年の存在が、十四歳の少女の体の中に「未知の何か」を見ている。
俺は窓の外を見ていた。橙色の空。遠くの山脈のシルエット。春の風。
ユイの体の中で、聖と魔の境界が揺らいでいた。それが何を意味するのか、まだ誰にも分からなかった。でも、ユイ自身は知らないままで、花を活けて、春を楽しんでいる。
その春が、いつまで続くのか。
俺には、分からなかった。
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