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第51話 帰郷

 王都の門を出た。


 振り返らなかった。大聖堂の尖塔も、ギルド本部の五階建ての石壁も、見なかった。春の朝日が背中に当たっている。温かい。冬の間ずっと冷たかった空気が、柔らかくなっていた。


 レクスとの夜から数日が経っていた。あの噴水広場。月明かり。赤い瞳。赤黒い聖剣。全部が、数日前のことなのに遠い。レクスは王都を去った。どこに行ったのかは分からない。


 俺たちも王都を離れる。行き先はラスティカ。Aランクになったことをドルクに報告するため。そして、ユイに会うため。


 馬車に揺られて五日。


 帰路の景色は、来た時の逆を辿った。平野部の農地。冬枯れだった畑に、春の緑が芽吹いている。農家の煙突から白い煙。土を耕す人の姿。水路に水が流れ始めている。冬から春へ。世界が目を覚ましている。


 だが、来た時と違うものがあった。


 街道の商隊が少ない。三日目の宿場町で気づいた。来た時は街道を埋めるほど馬車が行き交っていた。今は半分以下だ。宿場町の食堂で昼食を取った時、隣の席の住人が話していた。


「最近、山の方から変な音がするんだよ。地鳴りみたいな。夜中に地面が揺れることもある」


「魔物も増えたよな。先週、牧草地に灰色の狼が出た。あんなの、今まで見たことなかったのに」


 リーゼが碧い瞳を細めて聞いていた。食事の手を止めて、街道の方を見た。


「商隊が減っている。道幅は広いのに、轍の跡が新しいものだけ。……古い轍が消えかけてるということは、数週間前から通行量が落ちている」


 リーゼの観察。轍の新しさで通行量の変化を読む。没落貴族の教育の一つ——領地管理の基本だ。通行量は経済の体温計。下がっているなら、何かが人の動きを止めている。


「魔物の異常発生が辺境だけじゃなくなっているのか」


「その可能性は高いわね。王都にいた時も、ヘルムートが冥渦の報告を受けていた。辺境だけの話じゃない」


 メルティアが馬車の窓から外を見ていた。赤い瞳が春の景色を映している。若草の緑と、遠くの山脈のシルエット。


「……千二百年前の封印が、全部同時に劣化している。王都の地下も、辺境も、この街道の周辺も。……大地が悲鳴を上げ始めてるのよ」


 声に♪がなかった。だが、春の陽光が赤い瞳に映って、瞳の色がわずかに温かく見えた。王都の冬から抜け出して、メルティアの中の何かも少しだけ解けている。


 五日目の朝。丘陵地帯に入った。枯れ草ではなく、春の若草が丘を覆っている。風が匂いを変えた。平野部の肥沃な土の匂いから、辺境の丘陵の匂いに。若草と石灰岩と、どこかの農家の煙突から流れてくる焼き栗の匂い。


 この匂いを知っている。


 ラスティカの匂いだ。



 ◇



 街壁が見えた。


 赤い瓦の屋根。灰色の石壁。南門の上に翻る冒険者ギルドの旗。半年前にここを出た時と同じ景色。だが、春の緑に縁取られて、冬の時より柔らかく見えた。


 南門にドルクが立っていた。禿頭に豊かな顎髭。樽のような体。腕を組んで、門の石柱に凭れている。隣にリタ。茶色の髪を束ねて、書類を抱えている。二人とも、馬車がこちらに向かうのを見て立ち上がった。


 馬車が止まった。降りた。石畳を踏んだ瞬間、足の裏にラスティカの感触が戻ってきた。王都の磨かれた石畳とは違う。少し粗くて、少し温かい。人が歩いて削った凹凸がある石畳。


「帰ったか」


 ドルクの声が、腹に響いた。低くて豪快な声。変わっていない。


「Aランクか。……随分と遠くまで行ったな」


「ああ。遠くに行った」


「だが帰ってきた」


「帰ってきた」


 ドルクが笑った。豪快に。だが、笑いの後で目が細くなった。俺の首元を、一瞬だけ見た。襟から覗きかけている黒い紋様の先端。気づいたのだろう。だが何も言わなかった。ドルクはそういう男だ。見えていても、言うべきでない時は言わない。


「書類!」


 リタが書類の束を差し出した。


「Aランクの報告書は三枚組よ! ギルド間の連携書類と、Aランク活動報告書と、Aランク冒険者登録の更新届! あと遠征帰還報告が一枚! 合計四枚!」


「三枚組と言ったのに四枚あるぞ」


「帰還報告は別枠よ! はいはい、さっさと書いて!」


 変わらない。リタは変わらない。王都にいる間、リタの「書類」に追われない日々が続いたが、帰ってきた瞬間にこれだ。だが、この声が懐かしい。ヘルムートの事務的な「数字で語ってください」よりも、リタの「はいはい」の方がよほど人間の温度がある。


 シアが「帰ってきました」と微笑んだ。紫の瞳が街壁を見上げている。王都の大聖堂ではなく、ラスティカの小さな街壁。シアの肩から、緊張が抜けていた。教会の影がない場所に戻ってきた安堵。


 ギルドの酒場に入った。変わっていない。暖炉。木のテーブル。壁の掲示板。酒場の匂い——麦酒と焼き肉と木の煙と、古い木のテーブルが染み込ませた何百人分の汗の匂い。王都のギルド本部の酒場より小さい。暖炉一つで全体が温まる広さ。


 だが、掲示板が変わっていた。依頼書の数が増えている。以前はBランク以上の依頼は掲示板の端に数枚だったのに、今は三分の一がBランク以上だった。魔物の出没が増えている証拠だ。



 ◇



 酒場の奥のテーブルに、亜麻色の髪の女が座っていた。


 アリア・ロスヴァイン。眼鏡。だが、以前と違うものがあった。テーブルの上に依頼書はなかった。代わりに、地図が広げてあった。辺境周辺の地図。赤い印がいくつも打ってある。魔物の出没地点だろう。アリアは情報を集める側に回っていた。


 三つ離れたテーブルではなかった。


 アリアが俺を見た。眼鏡の奥の瞳が、以前とは違う光を帯びていた。笑った直後に影が差す、あのパターンが消えかけている。完全には消えていない。だが、影の差す間隔が長くなっている。


「お帰り、カイト」


 自然な挨拶。距離の壁がない。声に力がある。半年前に「自分で歩く練習をしている途中」と言っていた女が、今は地図を広げて魔物の出没パターンを分析している。歩く練習は、終わりかけていた。


「座って。……話したいことがある」


 同じテーブルに座った。四人と、アリア。五人分のジョッキを注文した。アリアは麦酒を飲むようになっていた。前は水だった。ジョッキが並ぶと、麦芽の匂いが立ち上った。ラスティカの麦酒。王都のものよりは少し冷たくて、少し苦い。この味だ。


「風読みで感じ取っていたの」


 アリアがジョッキを置いて、地図を指した。南東の山脈。


「南東からの魔素の風が、半年前の二倍以上に強くなっている。カイトたちが王都に行く前にも感じていたけど、あの時はまだ微弱だった。今は——風読みで常に感知できるレベルまで上がっている」


「常に?」


「ええ。風を読まなくても、肌で感じる。空気の中に魔素が混じっている。ラスティカの住人はまだ気づいていないけれど、私にはわかる。……何かが、加速してる」


 アリアの眼鏡の奥の瞳が真剣だった。風読みのAランクスキル。俺の感覚では捉えられない情報を、アリアは「風」として読んでいる。辺境の空気そのものが変わり始めている。


「地図の赤い印は?」


「この三ヶ月で、ラスティカ周辺での魔物の出没が確認された場所。……見て。南東に集中してるの」


 赤い印が、南東の山脈を起点に扇状に広がっていた。霧喰いの討伐の後にアリアが報告してくれた「南東の山脈から何かが生態系を押し出している」という分析と一致する。あの時は兆候だった。今は、兆候が確定に変わっている。


「ドルクさんにも報告してある。Bランク以上の依頼が増えた理由、これよ」


 メルティアが赤い瞳でアリアの地図を見ていた。赤い印の分布を見ている。何かを計算している目。


「アリアちゃん♪ 随分としっかりしたわね。地図まで作って」


 ♪がついた。軽い声。だが、地図を見る目は真剣だった。♪と目が別のことを言っている。アリアの変化を喜びながら、同時に地図の情報を分析している。


「あの……メルティアさん、『ちゃん』はやめてもらえませんか。もう子供じゃないので」


「あら、ごめんなさい♪」


 謝る気がない笑顔。アリアが眉をひそめたが、口元が微かに緩んでいた。



 ◇



 夜。宿の部屋。


 ラスティカの宿。半年ぶりの部屋。壁に染みがある。天井が低い。窓が小さい。王都の宿より狭くて古い。だが、ベッドに座った瞬間に体が覚えていた。このマットレスの沈み方。この壁の匂い。古い木と、暖炉の煤と、誰かが零した麦酒の痕跡が混ざった匂い。


 窓を開けた。ラスティカの夜空。星が近い。王都では見えなかった小さな星まで見えている。空気が澄んでいる。春の夜風が入ってきた。若草の匂い。遠くの森の匂い。虫の声が聞こえ始めている。冬には聞こえなかった音。季節が巡っている。


 左腕の魔印が、静かに脈打っていた。首の付け根。黒い紋様の先端が、襟の下に隠れている。まだ隠せる。だが、もう数ミリ進めば——。


 ラスティカの街並みが窓の向こうに広がっていた。赤い瓦。石壁。暖炉の煙。小さな街。辺境の楽園。


 帰ってきた。


 半年前にここを出た時、「小さな楽園が後ろに流れていった」と思った。今、その楽園に戻っている。暖炉がある。ドルクがいる。リタがいる。アリアがいる。そしてすぐ近くにユイがいる。


 小さな楽園は、まだここにあった。


 だが、楽園の地面の下で、千二百年前の傷が口を開こうとしている。アリアの風読みが感じ取った魔素の風。二倍に膨れ上がった大地の呼気。封印陣が崩壊し始めている。


 楽園の土台が、揺らいでいた。


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