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第50話 対称の鏡

 月明かりが、石畳を青白く染めていた。


 夜。王都の大通り。人気がない。深夜の王都は昼間の喧噪が嘘のように静かで、自分の足音だけが石壁に反響して返ってくる。春の夜風が、街道の向こうから湿った土の匂いを運んできていた。雪解けの季節。大地が息を吹き返す匂い。だが今夜は、その匂いの中に何かを探している。


 レクスを探していた。


 一人で歩いている。メルティアたちは宿に残した。出る前にリーゼが「一人で行く気?」と碧い瞳を鋭くした。「私も行くわ」と言いかけた。だが、俺の目を見て口を閉じた。何かを読み取ったのだろう。リーゼは黙って頷いた。「……気をつけて」。それだけ。リーゼは必要な時に、必要な言葉だけを使う。


「これは俺が行く」


 そう言って、宿を出た。


 大通りを南に歩いた。裏通りではなく、大通り。レクスは裏通りに棲んでいた。だが昨夜、安酒場で壁を斬った。もう裏通りに隠れるつもりがない。隠れる必要がない。力を手に入れた人間は、隠れない。


 大通りの突き当り。噴水広場。


 月明かりに照らされた石畳の上に、金色の髪の男が立っていた。



 ◇



 レクス・グランディア。


 だが、俺が知っているレクスとは違っていた。


 金色の髪は同じだ。背の高さも。体格も。だが、纏っている空気が違った。体から黒い靄が漏れ出している。微かに。肩口と手の甲から、黒い煙のように立ち上って、夜風に溶けて消えていく。


 匂いがした。焦げた匂い。だが木や布が燃える匂いとは違う。もっと甘い。蜜が焦げたような。花が灼かれたような。


 寿命が燃えている匂い。


 命が少しずつ、体から零れ落ちている。その匂いだ。


 右手の甲に赤黒い紋様。契約印。俺の左腕の黒い魔印とは色が違う。赤と黒が混じった、毒々しい色。


 瞳。金色の瞳に、赤い縁取りが浮かんでいた。瞳孔の周りに赤い輪。契約直後の段階を超えている。赤が金を侵し始めている。虹彩の半分近くが、既に赤に変わっていた。昨夜の暴走で、かなりの寿命を使ったのだろう。


 腰に聖剣。だが白銀ではない。赤黒い光を纏った聖剣。汚染された光。


「よう、カイト」


 レクスの声は、穏やかだった。


 異様なほど穏やかだった。


 怒りがなかった。焦りがなかった。嫉妬がなかった。ラスティカで対峙した時の、あの剥き出しの感情が全て消えていた。代わりに残っているのは、何かを手放した後の空虚な穏やかさ。全部捨てた人間の顔。


「お前と同じことをしたよ。悪魔と契約した」


 月明かりがレクスの金色の髪を照らしている。赤い縁取りの瞳が、穏やかに俺を見ている。


「……これで対等だろう?」


 対等。その言葉が、噴水の水音に混じって消えた。


「対等じゃない」


 言った。言わなければならなかった。


「お前の契約は命が対価だ。使うたびに死に近づく。俺の契約とは比較にならない」


「知ってる」


 レクスが微笑んだ。穏やかに。


「でもな、カイト。お前だって同じだろう? 魔印が広がるたびに、人間じゃなくなっていく。俺は寿命を燃やす。お前は魂を侵される」


 レクスの赤混じりの瞳が、俺の首元を見た。襟から覗きかけている黒い紋様の先端を、見ているのだろう。


「……どっちが先に壊れるかの競争だ」


 噴水の水が流れていた。月明かりが水面に反射して、揺れる光の模様を石畳に描いている。二人の影が、月の光の中で向かい合っていた。


 対称の鏡。


 妹のために魂を売った男と、失った力を取り戻すために命を売った男。同じ選択。違う動機。同じ代償。違う形。


 レクスが聖剣の柄に手をかけた。


「……一つだけ、試させてくれ」


 赤黒い聖剣が抜かれた。鞘から出た瞬間、赤黒い光が刀身に走った。鉄を焼いたような赤と、闇を流し込んだような黒が、刀身の上で脈動している。


「今の俺が、お前に届くかどうか」


「レクス。お前が剣を振るたびに命が削られる。やめろ」


「やめない」


 レクスの声が、初めて感情を帯びた。空虚な穏やかさの下に、微かな熱。


「やめたら、俺はもう何も残らない」


 赤黒い斬撃が飛んだ。


 風を呼んだ。体が軽くなる。斬撃を横に逸らした。赤黒い魔力の波が石畳を裂いた。亀裂が走る。凄まじい出力。寿命を燃料にした力は、粗暴だが圧倒的だった。


 だが——一振りで、レクスの体から光が零れ落ちた。微かな金色の粒子。命が漏れている。一年分の命が、一振りの代償として消えた。


 二振り目。横薙ぎ。土の壁を出して受けた。壁が砕けた。破片が散る。だが衝撃を殺せた。


 三振り目。上段からの振り下ろし。横に跳んで避けた。石畳が陥没した。


 攻撃しなかった。防御と回避だけ。レクスの剣を受け流し続けた。


「やめろ、レクス」


「やめない」


「お前が死ぬ」


「知ってる」


 四振り目。体が揺らいだ。レクスの足元がふらついている。体から漏れる黒い靄が濃くなっている。四年分の命が消えた。


 五振り目。


 レクスが剣を振り上げた。だが、振り下ろせなかった。


 膝が折れた。


 石畳に膝をついた。聖剣を杖のように突き立てて、辛うじて倒れずにいる。赤黒い刀身が石に刺さって、鈍い音を立てた。ラスティカの平原で、灰色の聖剣を同じように地面に突き立てていた姿と重なった。


 咳き込んだ。口から血が出た。石畳に赤い点が散った。月明かりが血を黒く見せている。


 五振り。五年分の寿命が燃えた。体が持たない。


 俺はレクスの前に膝をついた。同じ高さに。レクスの赤混じりの瞳を、正面から見た。


「レクス。お前にはまだ時間がある。こんな契約で命を燃やすな」


 レクスの瞳が俺を見た。赤と金が混じった瞳。かつては全部が金色だった。勇者の瞳。今は半分が赤に侵されている。


「……お前に言われたくないよ、カイト」


 赤い瞳が笑った。


 だが涙が流れていた。


 この男は、壊れかけの時に笑って泣く。ラスティカの平原で、膝をついて泣いていた時と同じだ。仮面が全部剥がれた時に、残っているのは笑いと涙の混合物。


「お前は妹のために魂を売った。理由がある。動機がある。守りたいものがあった。……俺は何のために命を売った?」


 レクスの声が震えていた。


「分からないんだ。分からないまま、契約しちまった。力が欲しかった。それは確かだ。でも、その力で何がしたかったのか——お前を倒したかったのか? Aランクに戻りたかったのか? 勇者に戻りたかったのか? ……どれも違う気がするし、どれも正しい気がする。分からないまま、命を売った」


 涙が、赤い瞳から流れ落ちていた。月明かりが涙の筋を照らしている。


「……馬鹿だな」


「ああ。馬鹿だ」


 噴水の水音だけが響いていた。二人の悪魔契約者が、月明かりの下で並んで膝をついていた。石畳の上。冷たい石。春の夜風。俺の左腕の魔印が、静かに脈打っている。レクスの右手の契約印が、赤黒く脈打っている。二つの脈動が、同じリズムを刻んでいるように聞こえた。


 しばらく、何も言わなかった。


 噴水の水が流れる音。遠くで夜鳥が鳴く声。春の夜の匂い。土と水と、微かに混じる花の蕾の匂い。季節が巡ろうとしている。


 レクスが立ち上がった。膝を震わせながら。赤黒い聖剣を地面から引き抜いた。刀身の光が弱まっている。力を使い果たしかけている。


「……行くよ」


「どこに行く」


「分からない。でも、ここにはいられない。お前の近くにいたら、また剣を振っちまう」


 レクスが背を向けた。歩き出した。赤黒い聖剣を引きずるように。切っ先が石畳を擦って、高い音を立てている。金色の髪が月明かりに揺れている。


 その背中を見ていた。


 三年間、見続けた背中だ。勇者パーティの荷物持ちとして、いつもこの背中の後ろを歩いていた。あの頃の背中は大きかった。自信に満ちていた。光を纏っていた。


 今の背中は、同じで、全く違っていた。同じ金色の髪。同じ広い肩。だが、光がない。代わりに、黒い靄が肩口から漏れ出している。命の残り火。


 止めなかった。


 止める権利がなかった。自分だって、同じ選択をした人間だから。悪魔と契約して力を得た人間が、同じことをした人間を止める言葉を、俺は持っていない。


 レクスの背中が、大通りの向こうに消えていった。月明かりの中に。赤黒い聖剣の軌跡が、石畳に細い傷を残していた。



 ◇



 宿に戻った。


 部屋の扉を開けると、メルティアが窓辺に立っていた。蝋燭の蜜蝋の匂いが、暗い部屋に充満していた。何時間も灯し続けた蝋燭。待っていたのだ。ずっと。


 赤い瞳が俺を見た。全てを見通しているような目。問いかけの目。だが同時に、答えを急がない目。


「レクスは?」


「行った」


「……追わないの?」


「追えない。あいつの選択は、あいつのものだ」


 メルティアの赤い瞳が、俺を見つめていた。蝋燭の光が瞳の中で揺れている。


「……あなたの選択も、あなたのものよ」


 小さな声だった。♪がない。からかいがない。千年の悪魔が、契約者を見つめて言った、素の言葉。


 その言葉の中に、色々なものが含まれていた。カイトの左腕の魔印。レクスの右手の契約印。二つの代償。二つの選択。この夜、対になった二人の悪魔契約者。


 メルティアはそれを全部知っている。千年の知識で。悪魔の感覚で。そして、カイトの契約者として。


 だが、メルティアの手が微かに震えていた。窓枠を掴む指が、白くなっている。♪がないのは、♪をつける余裕がないからだ。


 何も言わなかった。言葉がなかった。


 窓の外を見た。王都の夜空。月が出ていた。


 月が、雲に隠れた。


 灰色の雲が、ゆっくりと月を覆っていく。月明かりが薄まる。王都の夜が暗くなる。大聖堂の尖塔のシルエットが、雲の影に呑まれていく。


 春の夜風が、窓の隙間から入ってきた。冷たかった。


 暗い部屋で、二人が立っていた。蝋燭の光だけが揺れていた。

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