第49話 赤い瞳
異変が起きていた。
朝。ギルド本部に向かう途中で、人だかりができていた。王都南区の通り。普段は静かな宿屋街。だが今朝は違った。人の壁の向こうに、壊れた建物が見えた。
冒険者宿だった。
壁が斬り裂かれていた。
石壁に、斜めに走る深い傷。一本ではない。三本。四本。石を紙のように切断した刃の痕跡。切断面が滑らかだった。鉄甲蟲の爪でも、グリムファングの牙でもない。これは剣だ。剣による一撃が、石壁を貫通している。
建物の中が見えていた。壁に開いた穴から。ベッドが砕けている。床に血痕。だが死体はない。重傷者が三名、既に治療院に運ばれたという声が人だかりの中から聞こえた。
匂いがあった。石の粉塵と、血と、そしてもう一つ——焦げた匂い。だが、火で焦げた匂いとは違う。もっと鋭い。金属を高温で溶かした時のような、刺すような焦臭。
左腕の魔印が反応していた。
疼き。だが、聖属性の疼きとは違った。ヴィクトルの聖域の中で灼けた時の「存在を否定される」痛みではない。もっと近い振動。共振に近い。地下水脈で黒い魔素に触れた時と似ている——だが、悪魔そのものでもない。
人間が悪魔の力を使った痕跡。
壁に近づいた。斬撃痕に手を伸ばした。触れた瞬間、指先が痺れた。切断面に赤黒い残滓がこびりついている。聖属性でも魔属性でもない。両方が混ざっている。
「リーゼ」
隣にいたリーゼを呼んだ。リーゼが壁の斬撃痕を見ている。碧い瞳が鋭くなっていた。剣を使う人間の目。斬撃の角度と深さと軌道を、瞬時に読み取っている。
「大剣か長剣。片手で振っている。右利き。……力任せじゃない。型がある。訓練された斬撃よ。だけど」
リーゼの碧い瞳が、切断面の赤黒い残滓を見つめた。
「魔力が剣に乗っている。剣そのものから魔力が放出されている。普通の剣では、こうはならない。……魔力を帯びた武器。それも」
「聖属性の剣に、魔属性の力が上書きされている」
言葉が出た。自分の声に驚いた。だが、指先の痺れがそう教えていた。赤黒い残滓の中に、聖と魔が混じっている。本来の聖属性の剣に、後から魔属性が流し込まれた痕跡。
ノアの声が外套の中から響いた。低い。
「お前の推測は正しい。この斬撃痕は、聖属性の剣に魔属性の力を上書きした状態で振るわれたものだ。通常ありえない組み合わせ。聖と魔は相克する。聖剣に悪魔の力を流し込めば、剣は自壊するか、力が暴走する。……この切断面の荒れ方は、暴走に近い。制御できていない力で振るわれた剣の痕だ」
聖剣に悪魔の力。
頭の中で、像が結ばれた。灰色の聖剣。光を失った剣。あの剣に、赤黒い光が宿ったとすれば。
「レクス……」
声が漏れた。
◇
ギルド本部に戻った。緊急招集がかかっていた。酒場に冒険者たちが集まっている。朝の酒場は普段なら焼きパンと麦酒の匂いが漂っているが、今朝は違った。緊張の匂い。人間の汗と、早朝から鎧を着込んだ金属の匂い。情報が錯綜していた。
「魔物の襲撃か?」
「いや、斬撃痕が剣のものだ。人間の仕業だろう」
「冒険者の暴走? 酒に酔って暴れたとか」
「石壁を斬れる冒険者なんて、Aランク以上だぞ。酔っ払いじゃない」
朝食を取る気分ではなかった。だが体を動かすために、カウンターで水だけもらった。口の中に鉄の味が残っている。斬撃痕に触れた時の残滓が、まだ指に付いている。
現場の周辺で聞き込みをした。目撃者がいた。向かいの宿の窓から見たという中年の女。顔が青ざめている。一晩経っても恐怖が消えていない。
「金色の髪の男だったよ。若い男。背が高くて、外套がボロボロで。聖剣みたいな大きい剣を持ってた」
「顔は見えたか」
「見えたよ。笑ってた。笑いながら壁を斬ってた。……目がね、光ってたよ。赤くね」
赤い目。金色の髪。聖剣。笑いながら壁を斬る。
確信になった。
「行こう」
リーゼが頷いた。メルティアの赤い瞳が俺を見て、何かを確認するように一度瞬いた。シアが「カイトさん」と呼んだが、俺は既に走り出していた。
◇
王都の裏通り。レクスの安宿。
場所は知っていた。王都に来た初日、裏通りを通りかかった時に見えた安酒場。あの酒場の上にある宿だ。
階段を駆け上がった。二階。狭い廊下。黴と古い木の匂いが充満している。三番目の扉。閉まっていた。ノックした。返事がない。
「レクス!」
声を上げた。返事がない。扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
開けた。
部屋は空だった。
だが、「空」という言葉では足りなかった。荒れていた。
ベッドのマットレスが斜めにずれている。テーブルが傾いている。壁に斬り痕があった。三本。南区の宿と同じ軌道。ここで試し斬りをしたのだ。新しく手に入れた力を、自分の部屋の壁で試した。
床に衣類が散乱している。古い革鎧の破片。酒の空瓶。生活の残骸。
テーブルの上に、紙が一枚あった。
折り畳まれた紙。何度も折り直された痕がある。角が丸くなっている。何度も手に取って、読んで、畳んで、また開いて、また読んで。
ガルドの書き置きだった。
「レクス様へ。いえ、レクスさんへ。いえ、レクス」
三つの呼びかけ。あの書き置き。レクスはこれを何度も何度も読んでいた。折り目がそう語っている。
目が部屋の隅に行った。
ベッドの脚の横。暗がりの中で、何かが光っていた。微かに。赤黒い光。床の木目の隙間に挟まっている。契約の時に落ちたのだろう。レクスは気づかなかったのかもしれない。あるいは、気にしなかったのかもしれない。
屈んで拾い上げた。小さな石。親指の爪ほどの大きさ。赤黒い色。表面がぬめりを帯びていて、触れると指先が冷たくなった。人間の冷たさではない。
メルティアが部屋に入ってきた。赤い瞳がその石を見た瞬間、顔色が変わった。
赤い瞳から、全ての色が消えた。
「それを——こっちに」
声が違った。♪がない。軽さがない。千年の悪魔が、悪魔としての知識で、目の前の物体を認識した声。
メルティアが石を受け取った。両手で包んだ。赤い瞳を閉じた。数秒。石の中に残った情報を読み取っている。
目を開けた。
「……下級悪魔の契約石」
声が低かった。
「契約が成立した時に、触媒として残る残骸よ。上位悪魔の契約では出ない。下級の、粗悪な契約でだけ残る」
「契約石……。つまり、レクスは」
「悪魔と契約した。しかも」
メルティアの赤い瞳が、石を見つめていた。赤黒い光が瞳に映っている。
「命を対価にする型。最悪の契約よ。使えば使うほど寿命が削られる。一振りで約一年分の命が燃える。……あの男、自分を燃やしている」
メルティアの手が震えていた。石を持つ指が白くなっている。怒りではなかった。メルティアも悪魔だ。契約の意味を、誰よりも知っている。上位悪魔の正規契約と、下級悪魔の搾取型契約の差を。カイトの契約がどれほど対等に近いものだったかを。そして、レクスの契約がどれほど劣悪なものかを。
「この契約は……私がカイトと結んだものとは比較にならない。対価と力の比率が劣悪すぎる。命を燃料にする代わりに得られる力は、一時的なもの。持続しない。だから何度も使う。使うたびに命が減る。……自殺と同じよ」
拳を握った。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと複雑な、名前のつかない感情。
レクスが悪魔と契約した。俺と同じ道を——いや、もっと悪い道を。俺はメルティアと出会った。上位悪魔の正規契約。対等に近い条件。力を与えられ、代償は魂の死後帰属。レクスは下級悪魔に捕まった。搾取型の粗悪な契約。力の代わりに命を燃やす。
同じ選択。だが、何もかもが違う。
窓の外を見た。王都の裏通り。春の光が路地に差し込んでいるが、この部屋には届かない。暗い。黴の匂い。ガルドの書き置き。壁の斬り痕。空の酒瓶。レクスが過ごしてきた数ヶ月の全てが、この小さな部屋の空気に沈殿していた。
俺は辺境の宿で、四人の仲間に囲まれて紅茶を飲んでいた。暖炉の前で、メルティアの「千年のこだわり」の味を笑っていた。
レクスはここで、一人で、壁の染みを数えていた。
同じ時間を、全く違う場所で過ごしていた。同じ悪魔契約者なのに。
赤い瞳の勇者が、王都のどこかを歩いている。赤黒い聖剣を握って。命を燃やしながら。笑いながら壁を斬っていた男が、次に斬るのは何だ。
止めなければ。止められるのは、同じ道を選んだ人間だけだ。
部屋を出た。階段を降りた。裏通りに出た。春の風が頬に当たった。冷たい。だが、部屋の中より暖かかった。
レクスを探す。王都のどこかにいる。赤い瞳で。命を燃やしながら——
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