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第48話 選択の夜

 Aランク昇格を祝う夜だった。


 ギルド本部の酒場。テーブルの上にジョッキが五つ並んでいた。四つではなく、五つ。五人目がいた。


「王女が庶民の酒場で飲むなんて、前代未聞じゃないかしら」


 リーゼが碧い瞳を細めて言った。からかいの色。だが、嫌味ではない。


「研究者に身分は関係ありません。それに、今夜は祝いの場です。被験者の昇格を祝わないわけにはいかないでしょう」


 エリシアが真面目な顔で答えた。碧い瞳が真剣だ。白金の髪。今日はフードを被っていない。護衛もいない。王女として来たのではなく、一人の人間として来ている。テーブルの上にノートが置いてあるのは、この女の業病だ。


「被験者って言い方、やめてもらえますか」


「え? あ……すみません。つい」


 シアが笑った。紫の瞳が柔らかい。「エリシアさん、麦酒は初めてですか?」「いえ、学術院の打ち上げで何度か。ただ、この量は初めてです」。エリシアがジョッキを両手で持っている。持ち方がぎこちない。リーゼが「もっと軽く握りなさい。割れるわよ」と助言した。


 メルティアが五つ目のジョッキを掲げた。


「Aランク昇格おめでとう♪ カイト、感想は?」


「ジョッキが重い」


「それ、昨日も言ったわよ」


「昨日より重い」


 笑い声が上がった。五人分の笑い声。酒場の喧噪の中に溶けていく。焼き肉の煙の匂いと、麦酒の麦芽の匂いと、冬の終わりの夜風が入口から流れ込んでくる匂い。三つの匂いが混ざって、酒場の空気を作っていた。


 楽しい夜だった。


 だが、左腕が疼いていた。


 ジョッキを持つ左手。袖の下の魔印が脈打っている。鎖骨を超えた黒い紋様が、首の付け根に到達していた。服の襟で隠せる位置。だが、あと数ミリ進めば、襟から黒い線が覗く。隠せなくなる日が近い。


 メルティアの赤い瞳が、俺の襟元を見ていた。


 一瞬だけ。赤い瞳の光が暗くなった。瞳孔が微かに広がった。恐怖ではない。もっと深い場所にある感情。だが、一瞬で消えた。笑顔が戻った。


「もう一杯いかが♪」


 ♪がついた。声は軽かった。だが、ジョッキを差し出す手が、俺の手に触れた時に、指先が冷たかった。メルティアの指は通常温かい。悪魔の体温は人間より高い。指先が冷たいということは——何かが、メルティアの中で冷えている。


「ああ。もらう」


 受け取った。何も言わなかった。メルティアも何も言わなかった。


 リーゼがエリシアと話していた。「シュタイン家の記録、王立裁判所にあるのよね」「ええ。非公開資料ですが、閲覧申請は出せます。父上の決裁が要りますが……私から頼んでみます」「……ありがとう」。リーゼの碧い瞳が、初めてエリシアに対して警戒ではない光を向けていた。共通の利害。父の冤罪の真相に、エリシアの力が要る。それを認めることは、リーゼにとって小さな譲歩だった。



 ◇



 宿に戻った後。部屋で一人。


 窓を開けた。冬の終わりの夜風が入り込んできた。雪解け水の匂い。もうすぐ春の匂い。だが、左腕の魔印は季節の変わり目を祝わない。


 窓辺に立って、左腕の袖をまくった。黒い紋様。肩から鎖骨を超えて、首の付け根に到達した先端。指で触れた。温かくない。冷たくもない。体温と同じ温度。だがその下に、脈拍とは別のリズムで脈打つものがある。契約の鼓動。


 ノアの声が聞こえた。


「カイト。話がある」


「……魔印の進行率か」


「分かっているのか」


「分かる。首に来てる。前より早い」


 数秒の沈黙。ノアが言葉を選んでいる。


「現在推定22%。加速している」


「……このペースだと、どのくらいだ」


「お前から聞くとは思わなかった」


「聞かないと決めてた。だが、聞かないままでは判断ができない。……教えてくれ」


 ノアの声が、低くなった。千年の魔導書が、千年分の知識の中から最も正確な数字を選んでいる。


「三年だ。三年で60%に達する。人間としての意識が保てなくなる閾値」


 三年。


 その数字が、夜の部屋に落ちた。重い。数字には重さがある。「いつか」には重さがなかった。「三年」には、一日一日を数えられるだけの重さがある。


 今日は一日目だ。明日が二日目。千九十五日後に、俺は人間ではなくなる。


「……ただし」


 ノアの声が続いた。


「蝕や魔属性を使わなかった場合の数字だ。使えば縮む。大きな戦闘が続けば、二年を切る可能性もある」


 窓の外を見た。王都の夜景。無数の灯り。大聖堂の尖塔が暗い空に浮かんでいる。


 三年。あるいは、もっと短い。


 時間に限りがある。知っていた。だが、知っているのと、数字で突きつけられるのは違う。


 袖を戻した。襟を正した。黒い紋様が布の下に消えた。まだ隠せる。明日も隠せる。千九十五日後は——


 考えるのをやめた。今夜は、祝いの夜だ。



 ◇



 同時刻。


 闇市。


 レクス・グランディアが、石段を降りていた。二度目だった。


 今度は迷いがなかった。足取りが速い。旧水路の石壁が両側に迫って、松明の灯りが近づいてくる。甘くて腐った匂いが鼻を突くが、もう不快ではなかった。慣れた。一度踏み入れた闇は、二度目にはただの道になる。


 闇市の奥。前回と同じ場所。壁際の暗がり。


 フードの男が立っていた。


 待っていた、というより、最初からそこにいた、という佇まい。壁の影から切り取られたような人影。安物の外套。顔の半分が影に隠れている。薄い唇が笑っている。


「決めたんですね」


 声が粘ついていた。問いかけではなかった。確認だった。レクスの顔を見た瞬間に、答えが分かったのだろう。


 レクスは答えなかった。


 代わりに、腰の聖剣に手をかけた。灰色の聖剣。光のない剣。鞘から抜いた。鈍い金属音。白銀の輝きがあった頃なら、抜くだけで周囲が明るくなったはずだ。今は何も光らない。


 聖剣を、地面に置いた。


 石畳の上に。刃を下に。柄を上に。立てるのではなく、横たえた。勇者の証を、闇市の地面に横たえた。


「……力をくれ」


 声が嗄れていた。乾いた声。絞り出した声。


 フードの男が笑った。声だけでなく、体全体で笑った。肩が揺れた。外套が揺れた。笑い声が石壁に反響して、闇市の暗がりに染み込んでいった。


 フードを脱いだ。


 人間ではなかった。


 灰色の肌。尖った耳。赤黒い瞳。痩せた体。背丈はレクスと同じ程度。だが、纏っている空気が違った。粘つくような不快感。メルティアの写真を見たことがある——カイトのパーティの赤い瞳の女。あの女が纏う空気は、毒であっても美しかった。この悪魔の空気には美しさがない。飢えた獣が腐肉に群がる時の、あの粘ついた執着がある。


 薄い唇が、笑みの形に引き伸ばされていた。目は笑っていなかった。赤黒い瞳が、レクスの全身を舐めるように見ている。品定め。獲物の値踏み。


「対価は命ですよ」


 丁寧な声。粘ついた丁寧さ。


「お前の寿命を燃料にする。一年分の寿命で、一日分の力を得る。使えば使うほど、命が削られる。……分かっていますね?」


「分かっている」


「後悔しませんね?」


「後悔なんて、もう何年も前に使い果たした」


 悪魔の赤黒い瞳が光った。満足の光。獲物が自分から罠に入った時の光。


「では——契約成立です」


 悪魔の右手がレクスの右手を掴んだ。指が冷たかった。人間の冷たさではない。死体の冷たさ。生きていない温度。


 痛みが走った。


 右手の甲に、赤黒い紋様が浮かび上がった。カイトの魔印が黒いのとは違う。赤と黒が混ざった、毒々しい色。血の色と闇の色が溶け合ったような紋様。下級悪魔の粗悪な力の証。


 同時に、目が灼けた。


 金色の瞳の縁が、赤く変色し始めた。瞳孔の周りに、赤い輪が浮かぶ。視界が一瞬だけ赤く染まって、戻った。だが、赤い輪は消えなかった。金色の瞳に、赤い縁取りが刻まれた。


 体の中に、力が流れ込んできた。


 聖剣を拾い上げた。地面に横たえた灰色の剣。掴んだ瞬間、剣が震えた。柄を通して、右手の契約印から赤黒い力が剣に流れ込んだ。


 聖剣が光った。


 白銀ではなかった。赤黒い光。汚染された光。本来の聖なる輝きが、悪魔の力で上書きされている。だが——光だった。何ヶ月も沈黙していた剣が、光を取り戻した。赤黒くても。汚れていても。


 レクスが笑った。


 闇市の暗がりで。赤い縁取りが浮かんだ金色の瞳で。赤黒く光る聖剣を握って。


 笑い方が違った。かつての勇者の笑い方ではなかった。何かが壊れた後の笑い方。壊れた場所から、別のものが生えてきた笑い方。


 悪魔が後ろで見ていた。赤黒い瞳が、笑うレクスの背中を見ていた。薄い唇が、満足の形に歪んでいた。


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