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第47話 闇市の囁き

 石段を降りた。


 一段ずつ。暗闇の中に。松明の灯りが近づいてくる。甘くて腐った匂いが濃くなっていく。旧水路の石壁は湿っていて、指で触れるとぬめりがある。水滴が壁面を伝い落ちて、足元の水溜まりに落ちる音がした。ぽたり。ぽたり。地底湖を思わせる反響だが、ここには浄化する聖女はいない。


 石段が終わった。


 闇市。


 地下の広場だった。天井が低い。旧水路の石造りのアーチが頭上に並んでいて、その隙間に松明が挿してある。灯りが弱い。意図的に暗くしてある。売る側も買う側も、互いの顔がはっきり見えない方が都合がいい場所だ。


 地面は古い石畳。水路時代の排水溝が走っていて、そこに黒い水が溜まっている。動かない水。匂いが重い。黴と、古い石と、薬草を煮詰めたような甘い匂いと、もう一つ——肉が腐りかけた時の、甘酸っぱい匂い。呪物が発する瘴気の残滓だ。


 露店が並んでいた。木箱を台にして、布を敷いて、品物を並べている。禁忌の薬。効能が書かれた札がついているが、文字が読めない言語で書かれている。黒い液体が入った瓶。干からびた何かの手。ガラス瓶の中で光る虫。闇の魔導書。革の表紙が鎖で閉じられていて、触れると指先が痺れる種類の本。


 レクスは露店の間を歩いた。


 口の中に、朝の安酒の味が残っている。酸っぱい。安い麦酒の後味。舌の上に張り付いて離れない。水で洗い流す気力もなかった。


 見ている目があった。売り手たちが、レクスの腰を見ている。灰色の聖剣。光を失っていても、剣の形状が普通ではない。柄の装飾。鍔の形。教会の紋章が刻まれた鞘。聖剣であることは、見る者が見れば分かる。


 だが、誰も近づいてこない。闇市では、客が自分から歩み寄るのが作法だ。声をかけるのは、獲物を見つけた時だけ。


「おや」


 声がかかった。露店の一つ。痩せた男が木箱の向こうに座っていた。目が細い。指が長い。商人の手。品物を値踏みする目でレクスの腰を見ている。


「勇者の聖剣じゃないですか。……光が消えてますね」


 声に感情がなかった。事実を述べているだけ。光が消えた聖剣。それは闇市の商人にとって、ただの高級な金属の塊だ。


「売りますか? いい値をつけますよ。聖剣の素材は希少です。光がなくても、鍛造し直せば別の武器になる」


「売らない」


 声が出た。自分の声が、暗い闇市に反響した。低い。嗄れている。何日ぶりにまともに声を出したのか、覚えていない。


「そうですか。気が変わったらいつでもどうぞ」


 商人が興味を失った。レクスは歩き続けた。


 聖剣は売れない。光を失っても。ただの鉄塊になっても。これは、自分が勇者だった証だ。最後の一つ。


 セレナの微笑み、アリアの眼鏡の奥の涙、ガルドの書き置き。全部失った。残っているのは、この灰色の剣だけだ。これを手放したら、本当に何も残らない。


 闇市の奥に進んだ。松明の灯りが更に減って、暗がりが深くなっていく。露店の間隔が広がり、人の気配が薄くなる。闇市の端。売り物がない空間。壁際の暗がりに、何かがいる気配があった。



 ◇



「力が欲しいんだろ?」


 声がした。壁の影から。


 フードを被った男。顔の半分が影に隠れている。安物の外套。闇市に溶け込む風体。だが、声が違った。声に粘りがあった。蜜が腐ったような粘度。人間の声とは少しだけ違う振動。


「その目を見ればわかりますよ。力を失った男の目。何かを取り戻したくて、でも手段がなくて、自分でも何をしたいのか分からなくなっている目」


 丁寧だった。だが、丁寧さの中に刃がある。レクスの弱みを、柔らかい声で突いてくる。


「……誰だ」


「商人ですよ。この市場の。……ただ、私が売っているのは薬でも呪物でもありません。もっと根本的なものです」


 フードの男が一歩近づいた。松明の灯りが顔の下半分を照らした。薄い唇。笑っている。口元だけ。目は影に隠れている。


「力を売っています。……いえ、正確には、力を得る手段を」


「手段?」


「悪魔と契約すればいいんですよ」


 体が硬くなった。反射的に。「悪魔」という言葉が、背筋に冷水を流し込んだ。


「あんたの仇のカイトもそうしたんじゃないですか。悪魔と契約して、全属性を手に入れた。追放された荷物持ちが、Aランクにまで登り詰めた。……同じことをすればいい。力を得て、あいつを超えればいい」


「悪魔……?」


 声が震えた。


「俺は勇者だ。悪魔と契約なんて——」


「勇者?」


 フードの男が笑った。声だけで笑った。口元の形は変わらない。目は見えない。だが、声が笑っていた。粘ついた笑い。


「Cランクの勇者ですか? 聖剣の光が消えた勇者ですか? 仲間に全員去られた勇者ですか?」


 言葉が刺さった。一つずつ。順番に。Cランク。聖剣の光。仲間。全て事実だった。否定する言葉が見つからなかった。


「あんた、もう勇者じゃないでしょう」


 最後の一言が、胸の底に沈んだ。重い石のように。


 否定できなかった。


 勇者だった。かつて。聖剣が光り、仲間がいて、Aランクの称号があり、人々に英雄と呼ばれた。だが今、その全てが消えている。聖剣は灰色の鉄塊。仲間はゼロ。ランクはC。英雄と呼ぶ者はいない。


 何が残っているのか。


 聖剣だけだ。光のない、ただの剣。


「……その気になったら、また来てください。いつでもここにいますよ」


 フードの男が背を向けた。暗がりの中に溶けていく。足音がしなかった。歩いているのか、滑っているのか。人間の動き方ではなかった。


 最後に、声だけが残った。振り向かずに。


「ちなみに——あんたの仇が悪魔と契約した時、何を対価にしたか知ってますか? 魂の死後の帰属ですよ。生きている間は自由。……随分と軽い代償じゃないですか。あんたなら、もっと安く力が手に入るかもしれませんよ」


 安く。


 その言葉が、石壁に跳ね返って消えた。


 闇市の暗がりに、粘ついた声の残響だけが残った。レクスは立ち尽くしていた。掌の傷が疼いている。昨日砕いたジョッキの破片の傷。まだ塞がっていない。血が乾いて、皮膚が引きつれている。



 ◇



 安宿に戻った。


 闇市から地上に出ると、空気が変わった。地下の甘く腐った匂いから、冬の終わりの湿った風に。石段を上がるたびに、肺の中の空気が入れ替わっていく。だが、フードの男の声は、空気と一緒には出ていかなかった。頭の中に残っている。粘ついた声が、耳の内側に張り付いている。


 部屋の扉を開けた。暗い部屋。隣のベッドは空のまま。シーツが畳まれたまま。ガルドの不在が、家具のように部屋に定着している。もうそこに人がいた痕跡すら薄れている。枕の上の書き置きだけが、まだ残っていた。折り畳まれた紙。「レクス様へ。いえ、レクスさんへ。いえ、レクス」。三つの呼び方が並んだ紙。


 灰色の聖剣を壁に立てかけた。壁に寄りかかった剣が、微かに傾いた。支えがないと立っていられない。


 ベッドに座った。スプリングが軋んだ。安物のマットレスが体重を受けて沈む。座ったまま、壁を見た。黴の染み。黄色い天井の染み。七つ。毎朝数えている染みを、今日も数えた。


 壁の向こうから、声が聞こえた。


 安宿の隣は酒場だった。壁が薄い。酒場の喧噪が、壁を通して染み込んでくる。笑い声。歓声。ジョッキが打ち合わされる音。


「聞いたか! ロスト・エデン、Aランクだってよ!」


「マジか! 審査で二体同時を捌いたって!」


「全属性使い、格が違うな。辺境からここまで登り詰めるとは」


「元の勇者パーティ、今どうしてるんだ?」


「Cランクに落ちて、メンバー全員抜けたって。残ったの一人もいないらしいぜ」


「まだこの街にいるのか?」


「さぁ。見かけないけどな。……もう冒険者ですらないんじゃないか」


 笑い声。


 祝福の声と嘲笑が、同時に壁を通して流れ込んでくる。カイトへの祝福と、レクスへの嘲笑。同じ酒場の、同じ夜の声。


 レクスは壁を見ていた。黴の染み。七つ。


 手が震えていた。寒さではない。怒りでもない。もっと奥にある何か。名前のない感情。これが何なのか、分からない。悔しさか。絶望か。渇望か。


 壁に立てかけた灰色の聖剣が、窓から差し込む街灯の微かな光を受けて、鈍く光っていた。光ではない。反射だ。剣自身の光ではなく、外から当たった光を返しているだけ。


 フードの男の声が、耳の奥で反響していた。


 「力を売っています」。「悪魔と契約すればいい」。「あんた、もう勇者じゃないでしょう」。


 金色の瞳に、何かが灯った。


 怒りではなかった。もっと暗い。もっと冷たい。炎ではなく、炎が消えた後の炭のような光。熱はないが、触れれば火傷する。


 暗い部屋で、金色の瞳だけが光っていた。

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