第45話 裏通りの王
「Aランク審査の日程が決まったわ。来週の月曜日」
リーゼの声が、朝の宿の部屋に響いた。手にギルド本部からの通知書を持っている。碧い瞳が通知書の文面を走査していて、もう戦闘の前の顔になっていた。
「審査場は本部の五階。実技と面接。審査官は三名。……準備は万全にしておくべきね」
「リーゼ、もう一つ」
リーゼの碧い瞳がこちらを向いた。
「昨日、エリシアが言ってた。王立裁判所の非公開資料に、王族の閲覧権で入れるかもしれないと」
リーゼの瞳が、一瞬だけ揺れた。父の冤罪に関する記録。シュタイン家の没落の真相。王都に来た理由の一つ。エリシアに頼むことへの逡巡が、碧い瞳の奥に浮かんでいた。だが、すぐに押し込めた。
「……後で考えるわ。今はAランク審査が先」
優先順位をつける。リーゼらしい判断だった。だが、テーブルの上に積まれた法律書に、新しい付箋が三枚増えていた。夜中に読んでいたのだろう。審査の準備と、父の記録の調査を、同時に進めている。
メルティアが紅茶を持ってきた。
「はい、朝の一杯♪ ……あら、カイト、顔が暗いわよ」
「暗くない」
「暗いわ。紅茶飲みなさい。私の紅茶は千年の——」
「こだわりにしては普通の味、だろ」
「失礼ね♪」
♪がついた。だが、紅茶を渡す手が、俺の手に一瞬だけ長く触れた。温度を確かめるように。♪と手の温度が別のことを言っている。気づいていないふりをした。
春が近い。雪が溶け始めている。王都の石畳から、湿った土の匂いが立ち上り始めていた。
Aランク審査が来週に迫っている。
だが、この街のどこかで、別の物語が動いていた。
◇
同時刻。王都の裏通り。
レクス・グランディアが目を覚ました。
天井に染みがある。黄色い染み。雨漏りの跡。数えたことがある。七つ。毎朝、同じ染みを見て目が覚める。安宿の二人部屋。壁にカビが生えていて、湿った石と黴の匂いが空気に染みついている。窓は拳ほどの大きさしかなく、朝日がほとんど入らない。薄暗い部屋。冬の終わりの朝。布団が薄くて、体が冷えている。
隣のベッドを見た。
空だった。
シーツが畳まれている。几帳面に。ガルドの几帳面さだ。あの大きな体で、シーツの角を合わせて畳む姿を何度も見てきた。荷物がない。革鎧も。鉄盾も。枕の上に、紙が一枚。
起き上がった。体が重い。酒が残っているのか、別の何かが残っているのか。紙を取った。折り畳まれた紙。大きな字。歪んでいる。書いた人間の手が震えていたことが、字の形で分かる。インクが所々滲んでいた。涙か。水か。
「レクス様へ。いえ、レクスさんへ。いえ、レクス」
呼びかけの言葉が三回書き直されている。「様」を「さん」に直し、「さん」を消して呼び捨てにし、だがどれにも取り消し線が引かれていない。三つとも残っている。どれが正しいか、書いた本人にも分からなかったのだ。
「俺、もう分からないです。レクスに何て呼びかければいいのか。何を信じればいいのか。
俺は馬鹿です。自分で考える力がないって、あの銀髪の女剣士に言われました。そうかもしれません。
だから、一人で考えてみることにします。
ごめんなさい。
ガルド」
紙を読み終えた。
手が震えていなかった。涙も出なかった。
もう、何かを失うことに慣れてしまった。
Aランクの称号を失った。セレナに去られた。「沈む船に付き合う趣味はないの」と言われた。アリアに去られた。涙を流しながら「もういられない」と言われた。聖剣の秘密を知った。自分の強さがカイトの魔力を吸い取った結果だったと知った。カイトに敗北した。膝をついて、涙を流して、殺されなかった。殺されなかったことが、殺されるより痛かった。
そして今、最後の一人が去った。
ガルドの字を見た。大きくて歪んだ字。「俺は馬鹿です」と書いてある。馬鹿だと自覚できる人間は、馬鹿ではない。ガルドは自分で考えることを覚え始めている。その第一歩が、レクスの元を離れることだった。
紙をベッドの上に置いた。丁寧に。皺にならないように。ガルドが震える手で書いた字を、潰したくなかった。
立ち上がった。安宿の部屋。一人分の荷物。灰色の聖剣が壁に立てかけてある。光はない。柄に触れた。冷たい金属の感触。かつてはこの柄に触れるだけで、手の中に力が満ちた。今は何も感じない。ただの鉄の棒。
着替えて、部屋を出た。
◇
安酒場。
カウンターに座った。いつもの席。カウンターの木目に、ジョッキの輪染みが何重にも重なっている。酒と煮込み料理の匂い。油で汚れた壁。天井が低い。灯りが暗い。
隣の席が空いている。
いつも空いている。一ヶ月前まで、ガルドが座っていた席。大きな体を窮屈そうに丸めて、ジョッキを両手で包んで、「レクス様、今日の依頼はどこですか」と聞いていた席。
もう誰も座らない。
酒を頼んだ。朝から。一杯目を空けた。二杯目を空けた。三杯目を手に持ったまま、カウンターの木目を見ていた。
後ろのテーブルから声が聞こえた。冒険者たちの雑談。朝の酒場で、依頼の前に情報交換をしている連中。
「聞いたか? ロスト・エデン、Aランク審査を受けるらしいぜ」
「王に守られた悪魔契約者か。すげぇ出世だな」
「元の勇者パーティ、今Cランクだろ? 逆転もいいとこだ」
笑い声。
ジョッキを握る手に、力が入った。
「あの灰原カイトって男、追放される前は荷物持ちだったんだろ? 荷物持ちがAランクで、勇者がCランクか。笑えるな」
「笑えるっつーか、勇者の方が情けねぇよ。聖剣持ってて何やってんだ」
「聖剣の光が消えたって噂だぜ。もう勇者でも何でもないだろ」
陶器が割れた。
手の中で。
ジョッキが砕けていた。握る力が、自分でも分からないほど強くなっていた。陶器の破片が掌に食い込んでいる。麦酒が指の間から滴り落ちて、カウンターの木目に広がった。血が混じっている。掌の傷から流れた血が、麦酒と一緒に木に染み込んでいく。赤と琥珀が混ざって、汚い色になった。
痛みを感じなかった。もう何ヶ月も、痛みを正しく感じていない。体が壊れ始めているのか。心が先に壊れたのか。
店主が「おい、大丈夫か」と声をかけた。答えなかった。後ろのテーブルの冒険者たちが、こちらを見ている。金色の髪。腰の灰色の聖剣。「あいつ……もしかして」「聖剣持ってる。まさか勇者か?」「Cランクの?」。囁き声。嘲笑ではなかった。憐れみだった。嘲笑の方がまだましだ。憐れみは、底が抜けた場所からさらに下に落とされる。
破片を手から落とした。カウンターの上に、砕けた陶器と血と麦酒が混ざった水溜まりが残った。
立ち上がった。
金を置いた。ジョッキの弁償分も含めて。財布が軽くなった。日雇いのCランク依頼一件分の報酬。酒代とジョッキの弁償で、ほぼ消えた。
酒場を出た。
裏通り。冬の終わりの風。雪は溶けかけていて、石畳が濡れている。水溜まりが凍りかけの表面を持っていて、踏むと薄い氷が砕ける音がした。空気が冷たい。掌の傷が、冷気に触れて痺れた。血が固まりかけている。
足が動いていた。
いつもの帰り道ではなかった。安宿に向かう道を、途中で曲がった。曲がるつもりはなかった。だが足が曲がった。体が知っている。この先に何があるか。前に一度だけ、酔った勢いで迷い込んだことがある。あの時は怖くなって引き返した。今日は、怖くない。怖いという感覚が、もう遠い。
裏通りが狭くなっていく。建物の壁が近づいて、日差しが届かなくなる。空気が変わった。湿っている。黴と、古い石と、もう一つ——甘くて腐ったような匂い。禁忌の品が発する独特の残滓。呪物や闇の魔導書が長年蓄積させた瘴気が、壁の石に染みついている。
旧水路の入口。鉄格子が半開きになっている。錆びた鉄の匂い。その奥に、石段が下に続いている。暗い。松明の灯りが奥の方で揺れているのが見える。
闇市。
王都の地下に広がる非合法の市場。禁忌の薬、呪物、闇の魔導書。ギルドも教会も「存在しない」としている場所。
灰色の聖剣が腰にあった。光のない聖剣。勇者だった証。最後の一つ。
石段の上に立っている。下を見ている。暗い。松明の光が揺れている。甘くて腐った匂いが、石段の下から這い上がってくる。
掌の傷がまだ痺れていた。砕けたジョッキの破片が残した傷。痛みは感じない。もう何ヶ月も、痛みを正しく感じていない。
足が、一段目を踏んだ。
石段が冷たかった。革靴の底を通して、地下の温度が伝わってくる。二段目。三段目。暗闇が近づいてくる。松明の光が大きくなる。闇市の喧噪が、微かに聞こえ始めた。
勇者が、闇に足を踏み入れた。
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