第44話 それぞれの冬
審問免除から一週間。
王都に本格的な冬が来た。雪がちらつき始めて、大聖堂の白い尖塔が灰色の空に霞んでいる。石畳の隙間に氷が張って、馬車の車輪が滑る音が通りに響く。市場の屋台から立ち上る湯気が、冬の空気の中で白い塊になって消えていく。
日常が戻りつつあった。
ギルド本部での依頼。王都南区の害獣駆除。北区の倉庫に棲みついた低級魔物の掃討。冬は魔物の活動が鈍る季節だが、逆に人里に降りてくる種類もある。依頼は途切れない。
だが、空気が変わっていた。
ギルド本部の酒場で、冒険者たちの目が以前とは違う。「辺境の悪魔契約者」「面白い話題」だった視線が、別のものに変わり始めていた。
「あれが教会に睨まれて、王に守られた男だろ」
「審問廳で審問局長に聖域を展開されて、それでも立ったって」
「聖女が審問局長の聖域に割り込んだんだよな。あの小さい子が」
「王女殿下が教会法違反を指摘して止めたんだろ? あの王女、ただの学者じゃなかったんだな」
畏怖と好奇が、尊敬に近いものに変わり始めている。教会と王家の両方に関わった冒険者など、王都の歴史でも珍しい。「面白い話題」ではなく、「一目置かれる存在」になりつつある。
良いことだ。だが、同時に重い。一目置かれるということは、期待されるということだ。期待に応え続けなければ、尊敬は失望に変わる。
◇
エリシアが定期的に宿を訪れるようになっていた。
週に二回。学術院の鞄を抱えて、ノートと筆記具を山のように持ってくる。カイトの左腕に拡大鏡を当てて、魔印の紋様を模写する。聖属性の微弱な光を当てて反応を測定する。数値をノートに記録する。
「カイトさん。全属性を持つことは、どんな感覚ですか?」
二回目の調査の日。エリシアが拡大鏡から目を上げて聞いた。碧い瞳が、学術的な好奇心で光っている。
「感覚?」
「ええ。火と水は相反する属性です。通常の魔法使いなら、片方を使えばもう片方は使えない。でもあなたは両方を同時に制御できる。その時、体の中で何が起きているのか。主観的な感覚を聞きたいのです」
「……火を呼ぶと、胸の奥で何かが燃える。怒りに似た熱だ。水を紡ぐと、思考が澄む。冷たくて、深くて、透明になる。両方を同時にやると——」
「やると?」
「体の中で二つの方向に引っ張られる感覚。熱と冷が同居する。矛盾してるのに、共存できる。……うまく言えない」
エリシアのペンが走った。ものすごい速さで。碧い瞳が紙の上を行き来しながら、ノートの余白に図を描いている。二重螺旋のような形。
「これは——待ってください。矛盾の共存。属性の相克理論では説明できない。もしかして、あなたの魔力構造自体が通常の単属性型ではなく、複属性が——」
エリシアの声が速くなった。丁寧語が崩れかけている。瞳が輝いている。未知の現象に出会った研究者の興奮。
リーゼが部屋の隅で腕を組んで立っていた。碧い瞳がエリシアとカイトの距離を測っている。エリシアの顔がカイトの腕に近い。拡大鏡越しだが、近い。
「……カイトを研究対象として見てるだけなら、もう少し距離を取った方がいいんじゃないかしら」
「え? 距離……? あ、すみません。つい近づきすぎました。紋様の細部を見ようとして」
エリシアが慌てて身を引いた。頬が微かに赤い。学術的な距離感の喪失。リーゼの碧い瞳が、微妙な角度でエリシアを見ていた。警戒ではない。もっと複雑な、名前のつけにくい目。
メルティアが紅茶を持ってきた。「はい、お姫様も一杯♪」。エリシアが「あ、ありがとうございます」と受け取った。紅茶の湯気が、二人の間に白く漂った。
◇
夕方。シアがミルフィ村から帰ってきた。
冬の風で頬が赤く、銀色の髪に雪の結晶が数粒残っている。だが表情がいつもと違った。眉間に微かな皺。考え事をしている顔。
「カイトさん。お話があります」
部屋で二人になった。シアがテーブルの前に座って、両手を膝の上で組んだ。紫の瞳が真剣だった。
「ユイちゃんの治療で、気づいたことがあります」
「ユイの体調は?」
「体調は良いです。食事も睡眠も安定しています。……でも」
シアが言葉を選んでいた。紫の瞳が、テーブルの木目を見つめている。
「ユイちゃんの魔素病は……普通の魔素病とは、少し違うかもしれません」
「違う?」
「普通の魔素病は、体内に魔素が過剰に蓄積して臓器を侵す病気です。私の聖属性治療は、その過剰な魔素を浄化して排出することで症状を抑えています。……でも、ユイちゃんの体の中で起きていることは、蓄積ではないかもしれない」
シアの紫の瞳が上がって、俺を見た。
「ユイちゃんの体は、魔素を『変換』しているように見えるんです」
「変換?」
「蓄積ではなく、変換。体に入ってきた魔素が、そのまま溜まるのではなく、別の形に変わっている。……何に変わっているのかは、まだ分かりません。でも、私の聖属性を当てた時の反応が、通常の魔素病患者と明らかに違うんです。通常なら聖属性に抵抗するはずの魔素が、ユイちゃんの体の中では聖属性を受け入れている。むしろ、取り込んでいるように見える」
メルティアがあの夜に言ったことを思い出した。シアの情報漏洩を聞いた夜。「ユイちゃんの体には、聖属性と異常に高い親和性がある」。シアは別の角度から、同じ異常に辿り着こうとしている。
「……まだ確証はありません。もう少し治療を続けて、経過を観察してから、改めて報告します」
「分かった。……シア、ありがとう」
「いえ。……ユイちゃんは、不思議な子です。治療をしていると、私の方が元気をもらっている気がするんです。あの子の笑顔が、白銀の光より温かい時がある」
シアが微笑んだ。紫の瞳が柔らかかった。聖女がユイを治療しているのか、ユイが聖女を癒しているのか。どちらもなのかもしれない。
◇
夜。部屋の机の上に、封書が届いていた。
宛名はない。封蝋もない。宿の受付に預けられていたという。差出人の名前はなかったが、紙を開いた瞬間に分かった。几帳面で鋭角的な筆跡。銀縁の眼鏡の男の字だ。
「審問は免除されましたが、局長は諦めていません。王の裁定は『教会の権限を制限する』ものであり、局長個人の信仰を変えるものではない。
局長は現在、別の手段を模索しています。直接の浄化が封じられた以上、間接的な方法を取る可能性がある。具体的には不明ですが、くれぐれも気を抜かないように。
嵐はまだ過ぎていません。」
署名はなかった。だが、最後の一行に添え書きがあった。
「追伸。数字を積み上げることを忘れずに。数字は嘘をつきません」
マルクスらしい締め方だった。紙を折り畳んで、外套の内ポケットにしまった。
嵐はまだ過ぎていない。分かっている。ヴィクトルの声から温度が消えた瞬間に、分かっていた。
◆
王都の裏通り。雪が降っている。
安酒場のカウンターに、金色の髪の男が座っていた。薄い外套。手が震えている。カウンターの上にジョッキが三つ。全部空。隣の席は空いている。もう誰も座らない。
後ろのテーブルから声が聞こえた。「異端審問を免除されたってよ、あの悪魔契約者」「王が守ったんだろ? すげぇな」。笑い声。
金色の髪の男の手が、空のジョッキを握った。陶器が軋んだ。灰色の聖剣が腰にある。光はない。ただの鉄塊が、鞘の中で沈黙していた。
◇
宿の窓から、雪を見ていた。
白い粒が暗い夜空を舞っている。音もなく。風もなく。ただ静かに降っている。大聖堂の尖塔が雪の向こうに霞んでいる。ステンドグラスの色彩が、雪に滲んで淡い光の輪を作っていた。
左腕の魔印が、鎖骨を超えた位置で脈打っていた。シアの治療で進行は緩やかだが、止まっていない。黒い紋様の先端が、首の付け根に向かって、数ミリずつ進んでいる。服の襟で隠せる位置。まだ。
足音が聞こえた。部屋の扉が開く。
メルティアが紅茶を二つ持ってきた。一つを俺に渡す。温かいカップ。陶器の温度が掌に伝わってくる。紅茶の匂いが湯気に乗って立ち上る。
メルティアが窓辺に並んで立った。赤い瞳が雪を見ている。
「冬ね」
「ああ」
「春になったら、Aランクの審査ね」
「ああ」
短い言葉の応酬。それだけで十分だった。二人の間に言葉が少ないのは、言葉が要らないからだ。
メルティアが紅茶を啜った。小さな音。それから、窓の外の雪をしばらく見つめていた。
「……生きてる感じがするわね。季節が巡るって」
声が静かだった。♪がない。からかいもない。千年を生きた存在が、冬の雪を見ながら呟いた言葉。
千年。その時間の中で、メルティアは何度の冬を見てきたのか。何度の春を迎えたのか。数え切れないほどの季節の中で、今この冬を「生きてる感じがする」と言った。それは、千年の中でもこの冬が特別だということだ。
何が特別なのかは、聞かなかった。聞かなくても、分かる気がした。
紅茶を啜った。少し渋い。千年のこだわりにしては普通の味だ。だが、この普通の味が良い。
湯気が窓の外の雪と混じって消えた。白い粒子と白い湯気が交差して、一瞬だけ繋がって、離れていく。
冬の王都。
それぞれの場所で、それぞれの嵐を抱えて。
春が来れば——全てが動き出す。
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