第43話 王の言葉
審問中断から一日。
宿の窓から外を見ていた。外出は控えている。通りを歩く人々の声が窓ガラスを通して聞こえてくる。断片的に。
「聞いたか。審問廳で審問局長が強制浄化を——」
「王女殿下が止めたらしいぞ。教会法違反だって」
「教会と王家がぶつかったのか?」
「あの悪魔契約者、大した男だな。教会に睨まれて王に守られるとは」
王都中が噂している。公開審問で起きたことは、傍聴席にいた百人以上の口から、一夜で街全体に広がっていた。「審問局長が強制浄化を試みた」「王女が教会法違反を指摘して止めた」「教会と王家の対立か」。囁きが街道を走り、酒場を渡り、市場で交わされている。
宿の窓から見える通りの角に、白い法衣の人影が立っていた。聖騎士。腕を組んで、宿の入口を見ている。監視だ。教会は審問を中断しただけで、諦めてはいない。
リーゼが窓辺に来た。碧い瞳が聖騎士を一瞥した。
「二人。交代で立ってる。昨夜から」
「出るなということか」
「出られるけど、出れば報告される。今は動かない方がいいわ」
メルティアがベッドの上で紅茶を飲んでいた。赤い瞳は窓の方を向いていない。壁を見ている。いつもの余裕がない。昨日の審問廳で、聖域に体を晒された影響がまだ残っているのかもしれない。手の甲を、無意識に撫でていた。あの黒い亀裂が走った場所を。
シアは隣の部屋で休んでいた。聖域の中で白銀の障壁を全力展開した消耗が、まだ抜けていない。
◇
午後。宿の扉が叩かれた。
聖騎士ではなかった。エリシアだった。
フード付きの外套を被っている。王女の正装ではなく、市場で買い物をする市民のような服装。護衛はいない。一人で来た。通りの角の聖騎士の目を避けて、裏口から入ってきたのだろう。フードの下の白金の髪がわずかに覗いていて、碧い瞳が部屋の中を見回した。
「父上が動きました」
挨拶もなく、座りもせず、立ったまま言った。息が少し乱れている。急いで来たのだ。
「明日、王宮で非公式の会合が開かれます。教会の大司教と、審問局長と、国王。そして、あなた」
「……俺が王宮に?」
「国王が直接、あなたの話を聞きたいと。教会の主張と、あなたの主張の両方を聞いた上で、裁定を下す」
裁定。国王の裁定。教会法に基づく審問を、王権で上書きする。
「教会法より王権が上位にある以上、国王の裁定は教会にも拘束力があります。……父上は、昨日の審問の報告を受けて、これ以上教会に任せておけないと判断したようです」
エリシアの碧い瞳が俺を見ていた。学者の目ではなかった。王族の目。だが、その奥に、感情が見えた。怒り。昨日の審問廳で、聖域がカイトの体を焼くのを目の前で見た人間の怒り。法的な言葉の裏に、それがある。
「立会いは私が務めます。……大丈夫。父上は公正な方です」
「公正」と「味方」は違う。だが、公正であるだけで十分だ。事実をありのまま聞いてもらえるなら、それ以上は望まない。
「分かった。行く」
◇
翌日。王宮。
外壁を越え、中壁を越え、内壁を越えた。三重の城壁の最も奥。白い石の宮殿が、冬の灰色の空の下に佇んでいた。
護衛に案内されて、宮殿の奥の一室に通された。豪華ではなかった。実務的な部屋だった。長いテーブル。椅子が六脚。壁に地図と暦。窓が一つ。窓の外に、大聖堂の尖塔が見えた。王宮と大聖堂が、窓越しに向かい合っている。
部屋に入った瞬間、三つの気配を感じた。
部屋の匂いは、宿ともギルドとも教会とも違っていた。蜜蝋の磨き粉と、乾いた羊皮紙と、微かな薔薇水の香り。権力の匂い。何百年もかけて壁に染み込んだ、この場所でしか嗅げない匂い。
一つ目。正面の椅子。
壮年の男が座っていた。短く刈り込んだ黒髪に白いものが混じっている。鋭い目。だが、威圧する目ではなかった。観察する目。裁く目ではなく、測る目。相手の言葉を聞く前に、相手を見て、何かを読み取ろうとしている目。
国王。
二つ目。テーブルの右側。
白い法衣に赤い帯。痩せた老人。顔に深い皺。目が鋭い。唇が薄い。教会の大司教。この男の命で、ヴィクトルは審問を開いた。教会の政治的意思の具現者。
三つ目。大司教の隣。
金色の法衣。穏やかな微笑み。ヴィクトル・ルミエール。昨日、聖域で俺を焼こうとした男。今日も微笑んでいる。何事もなかったかのように。
エリシアが立会人席に座った。碧い瞳が正面を見据えている。
俺はテーブルの左側に座った。一人。リーゼもメルティアもシアもいない。この場に冒険者のパーティは必要ない。ここは政治の場だ。
国王が口を開いた。
「灰原カイト。冒険者ギルド所属。Bランク。パーティ名、ロスト・エデン」
声は低かった。だが低さの中に重みがあった。怒鳴る必要のない声。静かに言うだけで部屋を支配できる声。
「……話を聞かせてくれ。お前の口から」
敬語ではなかった。王が臣民に語りかける口調ではなく、一人の人間が別の人間に問いかける口調。これが、この国王の流儀なのだろう。
大司教が先に口を開こうとした。国王が片手を上げて制した。「先に、本人の話を聞く」。大司教が口を閉じた。唇が不満に歪んだが、王の制止には従った。
話した。
飾らなかった。言い訳もしなかった。
妹のこと。ユイ。魔素病。治療費が払えなかったこと。勇者パーティに三年間いて、荷物持ちとして働いて、追放されたこと。追い詰められて、悪魔と契約したこと。
魂の死後の帰属を売ったこと。全属性を覚醒したこと。辺境の街ラスティカで冒険者になったこと。
嘆きの将軍を倒したこと。教会の審問官が来たこと。討伐隊と戦ったこと。王都に来て、地下水脈を浄化したこと。
全てを。短く。事実だけを。
部屋が静かだった。話している間、国王の鋭い目は一度も俺から離れなかった。瞬きが少ない。言葉を聞いているだけではない。言葉の裏にあるものを、目で読んでいる。
話し終えた。
沈黙が落ちた。
大司教が口を開いた。
「陛下。悪魔契約者は教会法において最大の禁忌です。いかなる動機があろうと、悪魔と契約した事実は変わりません。例外を認めれば、教会法の権威が揺らぎ、秩序が崩壊します」
政治的な正論だった。感情ではなく、制度論。教会法の一貫性を守ることが大司教の仕事だ。個人的な悪意ではない。だがそれは、俺の事情に関係なく俺を排除できるということでもある。
ヴィクトルが補足した。
「私は彼を罰したいのではありません。浄化することで、救いたいのです。悪魔の契約を焼き切り、魂を解放する。それは罰ではなく、救済です」
穏やかな声。微笑み。善意の言葉。この場にいる誰もが、その言葉の実態を知らない。浄化が何を意味するか——力を奪い、代償だけを残す。廃人化。それを「救済」と呼ぶ男の微笑みが、正面にある。
国王が沈黙していた。
長い沈黙。
部屋に時計の音だけが響いていた。規則的な振り子の音。カチ、カチ、カチ。壁掛け時計の秒針が、沈黙の重さを測っている。
十秒。二十秒。三十秒。
国王の目が、俺を見ていた。それから大司教を見た。それからヴィクトルを見た。最後に、エリシアを見た。エリシアが小さく頷いた。何を頷いたのかは分からない。だが、国王の目が僅かに緩んだ。
国王が口を開いた。
「裁定を下す」
声が部屋の空気を変えた。国王の声が、静かに、だが絶対的な重みで空間を満たした。
「灰原カイトに対する異端審問を免除する」
大司教の目が見開かれた。ヴィクトルの微笑みは消えなかった。
「ただし、条件がある」
国王の目が俺に向いた。
「カイトは冒険者ギルドに所属し、王国の安全に貢献し続けること。教会は、灰原カイトに対する追捕・浄化の権限を行使しないこと」
条件。ギルドに所属し続けること。王国に貢献し続けること。つまり、自由の代わりに義務を負う。保護の代わりに、使われることを受け入れる。
「この裁定は、王権に基づく」
王権。教会法の上に立つ権力。この一言で、教会の審問は無効になった。
大司教の顔が歪んだ。唇が引き結ばれている。怒りか、屈辱か。だが、王の裁定に逆らう言葉は出てこなかった。出せない。王権は教会法より上位だ。それがこの王国の法体系だ。
ヴィクトルの微笑みが消えなかった。
「……王のご裁定に従います」
その声に温度がなかった。
穏やかだった。いつも通り穏やかだった。だが、いつもの穏やかさには微かな温もりがあった。善意の温もり。救済を信じる者の温もり。
今の声には、それがなかった。
言葉は従順だった。態度は礼儀正しかった。だが、温度だけが消えていた。声から、温もりだけが抜き取られていた。
王の裁定は、ヴィクトルの信仰を変えない。教会の権限を制限しただけだ。ヴィクトルの中にある「穢れは浄化しなければならない」という信念は、一文字も変わっていない。
それが、声の温度として漏れていた。
◇
王宮を出た。
冬の空気が冷たかった。息が白い。王宮の白い壁が冬の曇り空に溶けかけている。石畳を踏む革靴の音が、静かな宮殿の敷地に響いた。
門を出たところで、メルティアが待っていた。
外壁の外。石柱に背を預けて、赤い瞳が俺を見ていた。冬風で黒い髪が揺れている。
「……勝ったわね」
「勝ったのか?」
「教会は引いた。王の裁定がある限り、表向きは手を出せない」
表向き。
メルティアの声に、いつもの♪がなかった。
「……表向き、ね」
その言葉が、冬の空気より冷たかった。
メルティアの赤い瞳が、王宮の向こうに見える大聖堂の尖塔を見ていた。白い塔。ステンドグラス。あの塔の中に、微笑む男がいる。王の言葉に従った男。だが声から温度が消えた男。
「盾は手に入れたわ。でもね、カイト」
メルティアの声が低い。
「盾の裏側には、盾が守れないものがあるの。……王の裁定は教会の権限を縛る。でも、一人の男の信仰は縛れない」
分かっている。
ヴィクトルは退いた。王の裁定に従った。だが、あの男の目は何も変わっていなかった。穏やかな微笑みの奥に、温度を失った信念がある。
王の盾を得た。だが、盾の裏側に何があるのか。
まだ、誰にも分からなかった。
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