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第42話 聖域

 ヴィクトルが立ち上がった。


 椅子が軋む音すらしなかった。静かに、滑らかに、祈りの姿勢で両手を広げた。金色の法衣の袖が垂れ下がって、腕が翼のように左右に開いた。


「では、やむを得ません」


 穏やかな声だった。残念そうな声だった。


「教会法に基づき、強制浄化を執行します」


 審問廳の空気が変わった。


 変わったのではない。空気そのものが別のものに置き換えられた。


 金色の光が、ヴィクトルの体から溢れ出した。天窓から降り注いでいた聖属性の光が、十倍、二十倍に増幅された。白い大理石の壁が発光し始めた。床が光った。天井が光った。空気の中に金色の粒子が充満して、審問廳全体が金色の水槽のようになった。


 聖域サンクチュアリ


 呼吸した。肺の中に、光が流れ込んできた。空気ではない。聖属性そのものが呼吸器を通じて体に入ってくる。甘い。白檀の香りに似た甘さ。だが、その甘さの奥に、鋭い刃がある。肺の内壁を聖属性が撫でるたびに、体の奥で何かが悲鳴を上げている。


 魔印が灼けた。


 大通りですれ違った時の疼きとは比較にならなかった。


 左肩から鎖骨にかけての黒い紋様が、赤熱した鉄のように光った。皮膚の下で何かが暴れている。魔属性が聖域に拒絶されている。体の中の「魔」が、存在を否定されている。在ることを、許されていない。


 膝が折れた。


 大理石の床に膝をついた。冷たい。だが冷たさを感じている余裕がない。両手を床について、体を支えた。指が大理石の上で滑った。視界が白く染まる。金色ではなく、白。聖属性の光が網膜を焼いて、色彩が消えていく。


 聖属性の光が体を貫通していた。魔印の魔力を、焼こうとしている。契約の結節点に、聖の刃が押し当てられている。熱い。左腕全体が火の中にある。肩が灼ける。鎖骨が灼ける。首の手前まで広がった魔印の先端が、赤く明滅している。


「カイト!」


 メルティアの声が聞こえた。だが遠い。金色の光の中で、声が歪んでいる。


 メルティアを見た。赤い瞳が見開かれていた。だが、動けていない。メルティアの体から黒い靄が漏れ出していた。人間の姿の隙間から、悪魔の本質が滲み出ている。手の甲に黒い亀裂。指先が微かに変色している。人間の姿を維持するのが、精一杯。


 聖域は魔属性の存在を否定する。メルティアは上位悪魔だ。この空間の中では、存在そのものが否定されている。


 メルティアの赤い瞳が、俺を見ていた。手を伸ばそうとしていた。届かない。聖域が、千年の悪魔を封じている。


「……っ!」


 白銀の光が閃いた。


 シアだった。


 小さな体が、被告席の金色の円の中に飛び込んできた。両手を前に突き出して、白銀の聖属性を展開した。ヴィクトルの金色と、シアの白銀がぶつかった。


 同じ聖属性。だが質が違う。


 ヴィクトルの聖域は「裁きの力」。罪を暴き、穢れを焼く。金色の光は鋭い。


 シアの聖属性は「癒しの力」。傷を塞ぎ、苦痛を鎮める。白銀の光は柔らかい。


 マルクスの聖鎖と対峙した時と同じ構図だった。だが、規模が違った。聖鎖は十二本の鎖だった。聖域は空間そのものだ。シアの白銀が、金色の海の中で、小さな泡のように浮かんでいた。


 押されていた。


 シアの白銀の光が揺らいでいた。額に汗が噴き出している。歯を食いしばっている。両手が震えている。聖域の圧力が白銀の障壁を押し潰そうとしている。


「シア、無理するな——」


「カイトさんに、手を出さないでください!」


 シアの声が審問廳に響いた。


 あの日と同じ言葉。ラスティカの平原で、マルクスの聖鎖に拘束された俺の前に飛び出した時と同じ言葉。だが、今のシアの声には、あの時にはなかった強さがあった。震えていない。揺らいでいない。声の芯が、太くなっている。


 シアの白銀の聖属性が変化した。


 全方向に広げるのをやめた。代わりに、俺の周囲だけに集中させた。半径二メートルの球状障壁。小さい。だが密度が高い。白銀の光が金色の圧力を押し返して、俺の体への浄化圧力が軽減された。


 呼吸ができた。


 肺に入ってくる空気が、わずかにましになった。金色の聖属性の濃度が、シアの障壁の内側だけ薄まっている。


 顔を上げた。膝が床から離れた。立ち上がった。


 シアが隣にいた。小さな体。銀色の髪。紫の瞳が金色の光の中で輝いている。白銀の光を両手から放ち続けている。全力だ。額の汗が顎を伝って、大理石の床に落ちた。


 傍聴席が騒然としていた。


 貴族が立ち上がっている。ギルド幹部が席を蹴っている。市民が声を上げている。


「審問で強制浄化だと——」


「あれは拷問だろう!」


「王女殿下が立会いの場で、こんなことが許されるのか!」


「被告に抗弁の機会すら与えずに——」


 声が反響して混ざり合い、審問廳が怒号で揺れていた。


 エリシアが立ち上がった。


 立会人席から、一歩前に出た。白金の髪が金色の光の中で輝いている。碧い瞳に怒りがあった。学者の冷静さの下に押し込めていた感情が、表面に出ていた。


「審問局長」


 エリシアの声が、怒号の中を切り裂いた。王族の声。声を張ったのではない。声の質が変わったのだ。学者の声ではなく、王の血を引く者の声。審問廳が、その声に黙った。


「これは審問ですか。それとも処刑ですか」


 エリシアの碧い瞳が、ヴィクトルを射ていた。


「被告人に抗弁の機会を与えずに強制浄化を執行することは、教会法第三十七条に違反します。公開審問における被告人の抗弁権は教会法自身が保障しているものであり、それを審問局長が破ることは、教会法の否定に他なりません」


 法。


 リーゼが三日間で調べ上げた教会法の条文。エリシアがそれを武器に変えた。力ではなく、法で。聖域ではなく、言葉で。


「さらに、教会法第五十一条。審問中の暴力的処分の禁止。強制浄化は被告人の魔力を強制的に消去する行為であり、暴力的処分に該当します。——王族の立会いの下、公開の場での二重の法令違反。これを看過するわけにはまいりません」


 エリシアの声が審問廳に残響した。傍聴席が完全に静まった。法的な指摘を、王族が行った。公開の場で。百人以上の証人の前で。


 ヴィクトルの聖域が、揺らいだ。


 揺らいだのは力ではなかった。金色の光の濃度は変わっていない。揺らいだのは、ヴィクトルの判断だった。


 公開審問で王族に違法を指摘された。これ以上の強行は、教会の正当性を損なう。ヴィクトルの信仰は揺るがない。だが、教会という組織の正当性が損なわれれば、信仰を実行する基盤が崩れる。


 この男は狂信者ではない。政治的な判断ができる。だからこそ怖い。そして、だからこそ——ここで退く。


 金色の光が薄まった。


 空気が戻ってきた。聖属性の濃度が下がっていく。壁の発光が消える。天窓からの光が元の強さに戻る。審問廳が、建物本来の微弱な聖域に戻っていく。


 左腕の魔印の灼熱感が引いていった。鎖骨の上で脈打っていた赤い光が消えて、元の黒い紋様に戻った。肺の中の甘い光が消えて、普通の空気が戻ってきた。冬の、冷たい空気。


 メルティアの体から漏れていた黒い靄が消えた。赤い瞳が俺を見ている。手の甲の亀裂が閉じていく。人間の姿が戻った。だが、赤い瞳の奥に、恐怖の残り火が見えた。千年の悪魔が、怯えていた。


 ヴィクトルが両手を下ろした。金色の法衣の袖が垂れ下がる。微笑みが戻った。穏やかな。いつもの。


「……失礼しました。少々、急ぎすぎたようです」


 穏やかな声。だが——


 ヴィクトルの目の奥に、初めて「計算」の色が浮かんでいた。怒りでも敗北でもない。計算。次の手を考えている目。この男は感情で動かない。引くことを選んだのは、信念が揺らいだからではなく、ここで押し通すことが合理的でないと判断したからだ。


 信仰の人が、合理的に退いた。


 マルクスが「正直に言えば、私が最も恐れる上官です」と言った意味が、今、分かった。この男は信仰と合理を同時に持っている。どちらかだけなら対処できる。両方を兼ね備えた人間は、退いた後がもっと怖い。


 マルクスが審問官席に座ったまま、微動だにしていなかった。銀縁の眼鏡の奥の目が、ヴィクトルの背中を見ていた。何かを確認している目。この展開を、マルクスは予測していたのだろうか。


 審問は中断された。


 シアの白銀の光が消えた。小さな体が揺れた。俺が手を伸ばして支えた。シアの体が軽い。消耗している。だが意識はある。紫の瞳が俺を見上げた。


「……立てましたね。カイトさん」


「お前のおかげだ」


「いいえ。カイトさんが立とうとしたから、私の光が届いただけです」


 シアが微笑んだ。疲れた笑み。だが、揺らいでいない笑み。


 審問廳の金色の光は消えていた。白い大理石の壁が、元の白さに戻っている。天窓からの光は冬の灰色の光。聖域が晴れた後の審問廳は、ただの広い部屋だった。


 だが、この部屋で起きたことは、消えない。


 審問は中断された。だが、終わってはいない。

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