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第41話 審問廳

 大聖堂の門は、白かった。


 白い大理石。白い柱。白い階段。冬の朝日を受けて、建物全体が発光しているように見えた。門の上にステンドグラスが嵌まっていて、赤と青と金の光が階段の上に色の斑を落としている。


 階段を上った。足元の大理石が冷たい。革靴の底を通して、氷のような温度が足裏に伝わってくる。聖属性が染み込んだ石。千年以上この場所に鎮座している建物の、骨の温度。


 左腕の魔印が疼き始めた。門をくぐる前から。大聖堂の聖属性が、空気を通じて体に触れている。鎖骨の上の黒い紋様が、小さな炎で炙られているような灼熱感を発している。


 耐えられる。まだ。


 門を入った。


 廊下が続いていた。白い壁。白い床。白い天井。天窓から差し込む光が廊下を満たしていて、影が存在しない空間だった。シアの足が止まりかけた。この廊下を知っている。追放の日に歩いた廊下。リーゼが黙ってシアの手を取った。シアが一歩を踏み出した。


 廊下の奥に、扉があった。


 扉が開いた。



 ◇



 審問廳。


 息を呑んだ。


 巨大だった。天井までの高さが十五メートル以上ある。白い大理石の壁が四方を囲み、天窓が天井に四つ開いていて、そこから聖属性の光が柱のように降り注いでいた。光の柱が床に落ちる場所に、金色の円が描かれている。被告席。


 匂いがあった。白檀と乳香が混じった教会の香。重い。甘い。鼻の奥にまとわりつく。この匂いの中にいると、意識が微かに鈍くなる。聖属性の香が、精神に作用している。


 音が特殊だった。足音が壁に反響して、数秒間残る。自分の呼吸が、ホール全体に広がって返ってくる。囁き声が、どこから来たのか分からないほど拡散する。


 この部屋自体が、微弱な聖域として機能していた。天窓の配置と壁の大理石が、聖属性の光を集めて増幅する設計。建物そのものが、聖属性の装置だ。


 傍聴席が左右にあった。段差がついていて、百人以上が座れる。既に半分以上が埋まっていた。王都の有力者たち。貴族の紋章入りの上着。ギルド幹部の正装。軍の制服。そして、好奇心で来た市民。「悪魔契約者の審問」は王都中の話題になっていた。


 立会人席に、エリシアが座っていた。白金の髪。碧い瞳。今日はブラウスではなく、白と金の正装。王族の衣装。インクの染みはない。王女としてここにいる。碧い瞳が俺を見た。小さく頷いた。


 審問官席。ホールの正面。一段高い壇の上に、二つの椅子。


 右の椅子に、マルクスが座っていた。白い法衣。銀縁の眼鏡。表情が硬い。目は俺を見ず、正面を見ている。口元の薄い笑みがない。この男がここにいるのは審問局の第三席としての義務だ。だが、その義務が今のマルクスにとってどれほど重いか、俺には分かる。


 左の椅子に。


 ヴィクトル・ルミエールが座っていた。


 金色の法衣。白髪交じりの短髪。穏やかな目。微笑みを湛えた口元。大通りですれ違った時と同じ佇まい。だが、あの時は通りすがりだった。今は、正面から俺を見ている。


 あの目が、俺を見ていた。


 敵意がない。殺意がない。それが、最も恐ろしかった。


 被告席の金色の円の中に立った。光の柱が真上から降り注いで、体が金色に照らされた。左腕の魔印が灼ける。審問廳の微弱な聖域が、光の柱の位置で一段階強まっている。被告席は、最も聖属性が濃い場所に設計されている。


 足の裏が冷たい。大理石の冷気が体を這い上がってくる。だが、膝は折れていない。立っている。


 ヴィクトルが口を開いた。


「灰原カイト」


 声が審問廳に響いた。穏やかで、よく通る声。説教のような抑揚。聞いていると安心感すら覚える。だが、その安心感の中に刃がある。気づかないうちに切られる種類の声。


「あなたは悪魔との契約を結び、禁忌属性を得た。この事実に相違はありますか」


 傍聴席が静まった。百人以上の人間が息を止めていた。


「ない。事実だ」


 隠さなかった。


 傍聴席がざわめいた。囁きが壁に反響して、ホール全体に広がっていく。「認めた」「悪魔契約を」「自分で認めたぞ」。


 ヴィクトルの目が、微かに動いた。予想していたのか、いなかったのか。表情からは読めない。


「なぜ、悪魔と契約を結んだのですか」


「妹を救うためだ。魔素病を患っている。治療費を稼ぐ力が必要だった」


 嘘は言わない。飾りもしない。事実だけを、短く。


 ヴィクトルの穏やかな目が、一瞬だけ揺れた。微かに。瞬きほどの短さ。だが、確かに揺れた。「妹」という言葉に反応したのか。それとも、「救うため」という動機に。


 だが、揺れはすぐに消えた。いつもの微笑みが戻った。


「動機は理解できます。家族を守りたいという気持ちは、人として自然なものです」


 声が柔らかかった。共感の声。だが——


「ですが、悪魔契約は教会法において最大の禁忌です。動機が善であっても、行為そのものが穢れ。善意で毒を飲んでも、毒は毒です」


 論理。善意の毒。綺麗な言い回しで、事実を塗り替えようとしている。俺が毒を飲んだのは妹を救うためだ。だがヴィクトルの論理では、毒を飲んだ事実だけが残り、動機は消える。


「穢れ、か」


 声が出た。自分の声が、審問廳の壁に反響して返ってきた。


「その穢れた力で、辺境の街ラスティカを守った。嘆きの将軍を討伐した。教会の討伐隊から街の住人を守った。王都の地下水脈を浄化した。貴族領のグリムファングを討伐した。——その実績も、穢れですか」


 傍聴席がざわめいた。ギルド幹部たちの表情が変わった。実績の列挙は効いている。「嘆きの将軍」の名前が出た時、数人の冒険者が顔を見合わせた。あれがBランク討伐の伝説的な案件であることを知っている顔。


 ヴィクトルは微笑んでいた。ざわめきが収まるのを待っていた。急がない。この男は、場の空気を支配する術を知っている。


「実績は認めます」


 静かな声。


「あなたが多くの人を救ったことは、事実でしょう。だからこそ——」


 ヴィクトルの声が、一段低くなった。


「提案があります」


 提案。この言葉を待っていた。マルクスが教えてくれた「浄化」の提案。ノアが分析した「廃人化」の実態。


「悪魔の契約を、聖属性で浄化させてください」


 ヴィクトルの声が、審問廳に響いた。穏やかで、温かくて、救いの言葉のように聞こえた。


「契約を焼き切れば、あなたの魂は悪魔界から解放されます。穢れは消え、あなたは自由になれる。魂が本来あるべき場所に帰る。……それは救済です。罰ではありません」


 傍聴席が静まった。ヴィクトルの声が審問廳を満たしていた。救済。自由。魂の解放。言葉だけを聞けば、善意の塊だ。傍聴席の市民たちの目が変わっていた。「浄化すれば救われるのか」「それなら受ければいいのでは」。


 ノアの声が、外套の内側で囁いた。俺にだけ聞こえる音量。


「浄化すれば契約は消える。だが全属性の力も消える。お前は元の【魔力親和・F】に戻る。そして、お前の体に刻まれた魔印は消えない。契約の代償として刻まれた紋様は、力を失った後も体に残り続ける。力を奪われ、代償だけが残る。……実質的な廃人化だ」


 救済の皮を被った処刑。力を奪い、代償を残す。穢れを消すのではなく、穢れの痕跡だけを体に焼き付けて、無力な体で生かす。


 ヴィクトルの穏やかな微笑みが、正面にあった。この男はそれを「救済」と呼んでいる。本気で。善意で。だからこそ反論が難しい。「殺す」と言われれば戦える。「救う」と言われた時、どう戦えばいい。


 だが、答えは決まっていた。


「断る」


 声が審問廳に落ちた。反響して、壁に当たって、天窓を通じて空に抜けていくのが聞こえた。


 傍聴席がざわめいた。「断った」「浄化を?」「何を考えている」。


 ヴィクトルの微笑みが消えなかった。


「……残念です」


 変わらない声。残念だと言っている。その声に嘘はなかった。本当に残念なのだ。穢れた魂を救えなかったことを。


 だが、ヴィクトルの目の奥に、別のものが見えた。


 予測していた。俺が断ることを。提案が拒否されることを。この男は、最初から知っていた。救済の提案は手順に過ぎない。手順を踏んだ上で、次の段階に進むための。


 ヴィクトルの穏やかな目は揺るがなかった。微笑みが消えなかった。


 それが、最も恐ろしかった。


 断られても微笑んでいられるということは、断られた後の手段を持っているということだ。


 審問廳の聖属性の光が、微かに強まった気がした。天窓から降り注ぐ光の柱が、わずかに太くなっている。左腕の魔印が、灼熱感を増した。皮膚の下で、黒い紋様が脈打っている。


 嵐は、まだ始まったばかりだった。


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