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第39話 王家の異端

ヴィクトルとすれ違った翌日。


 ギルド本部で依頼を確認していると、受付嬢に呼び止められた。


「ロスト・エデンの灰原さん。三階の応接室にお越しください。ギルドマスターからのお呼びです」


 ヘルムートからの呼び出し。依頼の進捗報告か、それとも昨日の大通りの件か。どちらにしても、ギルドマスターが直接呼ぶのは通常ではない。


 四人で三階に上がった。磨かれた石の廊下。歴代ギルドマスターの肖像画が並ぶ壁。応接室の扉の前に、見覚えのない護衛が二人立っていた。革鎧ではなく、紺色の上着に銀の飾り緒。軍服に近い装い。ギルドの人間ではない。


 扉が開いた。


 ヘルムートが机の横に立っていた。黒のフロックコート。灰色の目がこちらを見たが、いつもの事務的な視線ではなかった。微かに緊張している。ヘルムートが緊張する相手がこの部屋にいるということだ。


 机の向こうに、若い女性が座っていた。


 白金の長い髪を低い位置で一つに結んでいる。碧い瞳。リーゼの碧とは違う。もっと明るくて透明な色。ガラス玉のように光を通す碧。色白。華奢な体つき。


 だが、最も印象に残ったのは服装だった。王族には見えない。白いブラウスの袖にインクの染みがいくつもあった。首から拡大鏡のレンズがぶら下がっていて、テーブルの上にノートと筆記具が散らばっている。机の上だけ見れば、研究室の一角だ。


「ようこそ、ロスト・エデン」


 ヘルムートが口を開いた。いつもの事務的な声を取り繕っているが、微かに堅い。


「紹介します。王都学術院の研究員……というのは表向きの肩書きで」


 女性が立ち上がった。背が低い。リーゼより少し低い。だが、碧い瞳がまっすぐこちらを見ていた。


「エリシア・レグナシオン。第三王女です」


 酒場ではなく、応接室の空気が凍った。


 王女。


 リーゼの碧い瞳が瞬いた。メルティアの赤い瞳が一瞬だけ細くなって、すぐに戻った。シアがフードの中で小さく息を呑んだ。


「……王女殿下が、冒険者に何の用だ」


「殿下は不要です。エリシアで結構。……そして、用件は単刀直入に言います」


 エリシアの碧い瞳が、俺を真正面から見据えた。


「全属性使い。理論上は存在し得ないはずの存在。あなたの魔力構造を調べさせてもらえませんか?」


 学術的な好奇心。声に敵意がなかった。殺意もなかった。政治的な計算も——少なくとも表面的には——なかった。純粋な知的関心。研究者が未知の現象に出会った時の声。


「……調べて、どうするんだ」


「記録します。分析します。全属性使いの魔力構造が通常の魔法使いとどう異なるのか、属性間の干渉パターンはどうなっているのか、融合魔法の発動メカニズムは——」


 エリシアの声が速くなった。碧い瞳が輝き始めている。丁寧語が崩れかけている。


「これは——待ってください。いえ、後で質問を整理します。まず基本的な確認をさせてください。あなたが同時に制御できる属性の上限は? 融合魔法の発動時、属性間の重ね合わせはどの段階で——」


「殿下」


 ヘルムートが咳払いをした。エリシアが口を閉じた。少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「……失礼。つい」


 リーゼが小声で俺に言った。碧い瞳に警戒の色がある。


「王女が直接冒険者に頼みに来るなんて、普通じゃないわね。学術的関心だけが理由とは思えない」


 リーゼの観察は正しかった。エリシアの態度に裏はない。だが、エリシアをここに送り込んだ者には、別の意図がある。


「正直に申し上げます」


 エリシアの声が落ち着きを取り戻した。碧い瞳が真剣になった。学者の目から、王族の目に切り替わった。


「私がここに来たのは、学術的関心だけではありません。父上——国王の意向でもあります」


「国王の」


「父上は、教会の権力拡大を警戒しています。教会が悪魔契約者を独自の判断で排除することは、教会法に基づく権利ですが、同時に王権の侵害にもなり得る。……国王の治める国の民を、教会が独断で裁くということですから」


 政治。マルクスが言った「国王の目に留まること」が、既に実現しかけていた。俺たちが動いたのではなく、国王の方が動いた。


「父上はあなたに興味を持っています。辺境で教会の討伐隊を退けた冒険者。王都の地下水脈を浄化した冒険者。……そのような人材を、教会が排除するのを看過するつもりはない、と」


「つまり、俺を『利用』するということか」


 率直に聞いた。エリシアの碧い瞳が、一瞬揺れた。だが、目を逸らさなかった。


「利用、という言い方もできます。ですが同時に、保護でもあります。国王が関心を示している以上、教会はあなたに手を出しにくくなる。……正直に言えば、利用と保護は同じ行為の表と裏です」


 正直だった。誤魔化さない。利用を利用と認める。その率直さが、この王女の最大の特徴だった。


「……分かった。魔力構造の調査は受ける」


 エリシアの碧い瞳が、再び輝いた。学者の目に戻っている。


「ありがとうございます! では早速——左腕を見せていただけますか? 魔印のある方の」


 左腕の袖をまくった。黒い紋様。肩から鎖骨を超えて、首の手前まで。エリシアが拡大鏡を目に当てて、魔印に顔を近づけた。インクの匂いと、古い羊皮紙の匂いがした。学者の匂い。


「これは……」


 エリシアの碧い瞳が、拡大鏡の向こうで見開かれた。


「悪魔の契約印。ですが……紋様の構造が、通常の契約印とは異なります。線の密度が高い。回路の階層が深い。これは下級悪魔の契約ではない。……上位悪魔の」


 エリシアの視線が、俺の左腕からメルティアに移った。


 メルティアが微笑んでいた。赤い瞳が、エリシアを見ている。いつもの笑顔。だが、指先がジョッキの縁をゆっくりと撫でていた。猫が獲物を値踏みする時の仕草に似ている。


「あら、鋭いお姫様ね♪」


 エリシアの碧い瞳とメルティアの赤い瞳が交差した。数秒の沈黙。学者が未知の存在を分析しようとする目と、千年の存在が微笑みの裏で何かを計っている目。


「……あなたは、何者ですか」


「カイトのパーティの魔法使いよ♪ それ以上は、まだ内緒」


 エリシアの目が細くなった。拡大鏡を首にかけ直して、ノートに何かを走り書きした。ペンが走る音が静かな応接室に響いた。メルティアの反応も含めて、目の前の全てを記録している。この王女は、世界の全てを研究対象にする人種だ。



 ◇



 リーゼが腕を組んで壁に寄りかかっていた。碧い瞳がエリシアを観察している。警戒が残っているが、敵意ではない。この人間は信用できるのかを測っている。


 シアは静かに立っていた。紫の瞳がエリシアを見ている。教会に追放された聖女と、王家の異端の姫。二人とも、所属する場所からはみ出した存在だ。シアがそれに気づいているかは分からない。だが、紫の瞳に敵意はなかった。


 応接室の窓から冬の日差しが差し込んでいた。エリシアのノートの上に光の四角が落ちている。ペンのインクが乾いていく匂い。鉄粉の混じった、学者の匂い。


「調査は、定期的にお願いしたいのですが」


「構わない。ただし、条件がある」


「何でしょう」


「調査結果を、教会には渡すな」


 エリシアが頷いた。迷いなく。


「当然です。これは王都学術院の研究であり、教会に報告する義務はありません」


 エリシアが手を差し出した。握手。華奢な手。だが指先にはインクの染みと、ペンだこがあった。学者の手。研究に没頭してきた手。握ると、意外に力が強かった。


「よろしくお願いします、灰原さん」


「カイトでいい」


「では、カイトさん。……次回の調査日程を詰めさせてください。できれば明後日に」


「早いな」


「研究者に時間を無駄にする余裕はありません」


 エリシアの碧い瞳が、また輝いた。学者の目。この王女は、政治の駒として送り込まれてきた。だが、その駒自身は、政治より研究に夢中だ。矛盾しているようだが、だからこそ裏がない。裏表がある人間は演技をする。エリシアは演技ができない。興味があれば目が輝き、興味がなければ目が曇る。分かりやすすぎるほど分かりやすい。


 応接室を出た。廊下を歩く。四人分の足音が石の床に反響する。


「どう思う」


 リーゼに聞いた。


「王女本人は嘘をついていない。あの目は本物の好奇心よ。だが、その好奇心を利用している人間が裏にいる。……国王は抜け目がないわね」


「メルティアは?」


「面白いお姫様ね♪」


 軽い声。だが、廊下を歩くメルティアの赤い瞳は、前を向いたまま動かなかった。何かを計算し終えて、結果を自分の中に仕舞い込んだ後の表情。


「シアは?」


「……あの方は、私と少し似ている気がしました」


 シアが小さく言った。紫の瞳が前を見ている。


「居場所の中で、はみ出してしまった人。……悪い人ではないと思います」


 ギルド本部の一階に降りた。酒場の喧噪が耳に戻ってきた。人の声と食器の音と、麦酒の匂い。三階の応接室の静けさとは別世界だ。


 王家という新たな駒が、盤上に現れた。


 利用と保護の表裏。教会への牽制。国王の意向。マルクスの助言通りの展開が、自然に動き始めている。


 だが、「駒」は双方向だ。国王が俺を利用するということは、俺も国王を利用できるということだ。


 教会が動く前に、盾を手に入れる。その盾の名前は、エリシア・レグナシオン。第三王女。王家の異端。


 窓の外で、大聖堂の尖塔が冬の空を突いていた。白い塔の最上階に、穏やかな男が座っている。


 嵐と盾が、同時に揃った。


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