第38話 穏やかな男
その日は、いつも通りの朝だった。
宿を出て、ギルド本部に向かう。王都に来て三週間。道にも慣れた。大通りを南に進んで、二つ目の角を左に曲がれば本部がある。朝の王都は人が多い。馬車の音。商人の声。パン屋から漂う焼きたてのパンの匂い。冬の空気に混じる炊事の煙の匂い。
いつも通りの朝のはずだった。
大通りの途中で、人だかりができていた。
道幅二十メートルの大通りの両側に、人が壁のように並んでいる。通りの中央が空けられていた。誰もが立ち止まって、大聖堂の方向を見ている。声が低い。囁き。
「大聖堂の正門が開いたぞ」
「行列だ。聖騎士の護衛がついてる」
「誰だ、あれ……金の法衣。局長か?」
大聖堂の正門が開かれていた。白い大理石の門。その奥から、行列が出てきた。
先頭に聖騎士が八人。銀の鎧を磨き上げて、盾と剣を携えている。隊列を組んで、通りの中央を歩いている。足並みが揃っている。教会の討伐隊とは格が違う。儀式的な行進。誰かを護衛するための隊列。
聖騎士の後ろに、一人の男が歩いていた。
白髪交じりの短髪。穏やかな目。微笑みを湛えた口元。中肉中背。特に威圧的な体つきではない。武器を帯びていない。杖も持っていない。ただ、歩いている。
金色の法衣を纏っていた。通常の聖職者の白い法衣ではない。金糸で織られた、局長専用の装束。朝日を受けて、法衣全体が淡く光っている。
ヴィクトル・ルミエール。
マルクスが語った名前。異端審問局第一席。教会の「剣」。聖属性の最高権威。
距離は三十メートルほどだった。通りの反対側。人だかりの向こう。直接触れてはいない。
だが、左腕が灼けた。
痛い。
鋭い灼熱感が、魔印の全域を走った。肩から鎖骨の上まで、黒い紋様が一斉に脈打った。体の内側に熱い針を刺し込まれたような痛み。思わず左腕を右手で押さえた。歯を食いしばる。口の中に血の味が広がった。歯茎を噛んだのか、それとも体の内側からの反応か。声は出さなかった。
三十メートル離れているのに。あの男の周囲に漂っている何かが、この距離で魔印に触れている。
目を凝らした。ヴィクトルの周囲五メートルほどに、金色の光の粒子が漂っていた。微かな粒子。陽光の中の埃のように見えるが、埃ではない。聖属性の魔力が、空気中に散布されている。意図して放っているのではない。ヴィクトルが歩くだけで、自然に漏れ出している。
その粒子が、三十メートルの距離を超えて拡散し、俺の魔印に反応していた。
隣でメルティアの気配が変わった。
振り返った。メルティアの赤い瞳が変わっていた。普段の余裕が消えている。笑みがない。♪がない。赤い瞳が冷たく、鋭く、ヴィクトルを見ている。千年の悪魔の目。人間のふりをやめた目。
「……あれは、桁が違うわ」
声が低かった。囁き。だが、囁きの中に重さがあった。千年を生きた存在が、一瞬で危険を計測し終えた声。
「マルクスの聖鎖は、展開して初めて脅威になる。あの男は違う。存在しているだけで聖属性が漏れ出している。……あの男自身が、聖域なのよ」
あの男自身が聖域。
マルクスの聖鎖は、技術だった。展開し、操り、対象を拘束する。鎖には形があり、数があり、破壊する方法があった。
ヴィクトルの聖属性は、存在だった。技術ではなく、体質。あの男が歩くだけで、周囲の空間が聖属性に染まっていく。意識的に展開する必要すらない。呼吸するように、聖属性が広がっている。
行列が大通りを進んでいく。ヴィクトルの金色の法衣が、朝日の中を歩いている。緩やかな足取り。急いでいない。聖騎士の護衛に囲まれながら、通りの人々に微笑みかけている。人々が頭を下げている。祝福を受ける信徒の顔。
そのヴィクトルが、ふと立ち止まった。
歩みが止まった。聖騎士の隊列が、一拍遅れて止まる。護衛が振り返る。「局長?」
ヴィクトルが顔を上げた。大通りの反対側。人だかりの向こう。
俺を見た。
三十メートルの距離を超えて、目が合った。
穏やかな目だった。微笑んでいた。敵意がなかった。殺意がなかった。警戒すら感じなかった。
まるで、散歩中に道端の花を見つけた人のような目だった。「ああ、こんなところにも咲いているのか」という目。興味はあるが、摘もうとはしていない。今は。
背筋が凍った。
敵意がないから怖いのではない。この男にとって、俺の存在が「脅威」ですらないことが怖い。マルクスは俺を「排除すべきか活用すべきか」と計算した。レクスは俺を「倒すべき敵」として見た。どちらも、俺を「相手」として認識していた。
ヴィクトルの目には、それがなかった。相手ではなく、「穢れ」を見ている。浄化すべき対象。善悪の判断ではなく、衛生の問題。汚れがあるから、拭く。それと同じ目。
ヴィクトルが微笑んだまま、歩き出した。行列が再び動き始める。聖騎士の足音が規則的に響く。金色の法衣が、人だかりの向こうに遠ざかっていく。
遠ざかっているのに、魔印の灼熱感はすぐには消えなかった。通り過ぎた後の空気に、聖属性の残滓が沈殿している。金色の粒子が、日差しの中でゆっくりと薄れていく。数分かかった。数分間、空気が聖属性に染まり続けていた。
あの男が全力で聖域を展開したら、どうなる。
リーゼが俺の横に来ていた。碧い瞳が、行列が去った方向を見ている。
「……あれが、マルクスの言っていた局長?」
「ああ」
「穏やかな人ね」
「ああ。穏やかだ」
「……あの穏やかさ、嫌な感じがするわ。怒りのない人間は、交渉できない」
リーゼの直感は正しかった。怒る相手は説得できる。怒りは感情であり、感情は揺れる。だが、ヴィクトルには怒りがなかった。怒りの代わりにあるのは、確信だった。揺るがない確信。水面のように静かで、岩のように動かない。
シアは何も言わなかった。フードの下で、紫の瞳が行列の去った方向をじっと見つめていた。唇が白かった。ヴィクトルの聖属性の残滓を、聖女であるシアはもっと敏感に感じ取っているのだろう。同じ聖属性を持つからこそ、あの力の深さが分かる。
四人が立ち止まっていた。大通りの片隅。行き交う人々が、何事もなかったかのように歩いていく。大通りの日常は、もう元に戻っている。
だが、俺たちの日常は戻っていなかった。
◇
宿に戻った。ギルド本部に行く気力が、削がれていた。あの一瞬の邂逅で、消耗していた。魔印の灼熱感はまだ残っている。鈍い痛み。左肩から鎖骨にかけて、ずっと。
部屋でノアを開いた。
「カイト。あの男の聖属性を分析した」
ノアの声が、いつもより重かった。千年の魔導書が、慎重に言葉を選んでいる。
「あの男の聖属性は、意図的に放出しているものではない。あの男自身が聖属性の塊なのだ。体内で常に聖属性が生成され、体表から自然に漏れ出している。……呼吸のように。心臓の鼓動のように。止めることはできないし、止める必要もない。あの男にとって、あれが普通の状態だ」
「マルクスの聖鎖との差は」
「聖鎖は魔力を技術で加工した武器だ。使用には集中が要り、展開には意思が要る。……ヴィクトルの聖属性は、技術ではない。体質だ。あの男が生きている限り、聖属性は周囲に溢れ続ける。三十メートル先のお前の魔印に反応したのが証拠だ」
「全力で展開したら?」
「……半径五十メートルが聖域化する。その領域内では、魔属性は存在できない。お前の禁忌属性は使えなくなる。メルティアは力を抑え込まれる。通常属性は使えるだろうが、融合魔法の一部は制限される可能性がある」
「蝕は」
「光と闇の融合であり、魔属性ではない。理論上は聖域の中でも発動できるはずだ。……だが、未検証だ。あの濃度の聖属性の中で、光と闇の制御が正常に行えるかは分からない」
分からない。千年の知識でも、答えが出ない。それが、ヴィクトル・ルミエールという存在の異常さを示していた。
窓の外を見た。大聖堂の白い尖塔が、冬の空を突いている。あの中に、あの男がいる。微笑みながら、聖属性を呼吸のように放出している男。
「ノア。あの男に勝てるか」
「正直に言う。現時点では、勝算は低い」
「……そうか」
「だが、勝てないとも言わない。あの男の聖域には弱点がある。シアの聖属性との干渉。蝕の可能性。そして——聖域の維持は自動的だが、聖域の強度を最大にするには集中が必要だ。集中を乱す方法があれば、隙が生まれる。力ではなく、知恵で崩す」
力ではなく、知恵で。
マルクスの助言を思い出した。「国王の目に留まること。教会より上位の権力を味方につけること」。力で倒すのではなく、政治的に封じる。
だが、政治が通じなかった場合。あの男が微笑みながら聖域を全力で展開した場合。
その時のために、手段を用意しておかなければならない。
左腕の魔印が、まだ疼いていた。鈍い灼熱感。あの男が通っただけで刻まれた痛みの残り火。
嵐は、穏やかな顔をしてやってきた。
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