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第37話 嵐の前

 王都に来て三週間が経った。


 依頼をこなし続けた。鉄甲蟲の駆除。地下水脈の浄化。貴族領のグリムファング討伐。王都北東の街道で出没した亡霊型魔物の掃討。ギルド本部の掲示板に貼られた依頼を一つずつ片付けて、報告書を出して、報酬を受け取って、次の依頼に向かう。


 ヘルムートが求めた「数字」を積み上げていった。


 達成率、百パーセント。失敗なし。平均処理速度、Bランク標準の七割。被害の最小化、護衛対象の負傷ゼロ。


 数字が語り始めていた。「辺境の悪魔契約者パーティ」という色眼鏡が、「実力派Bランク」という評価に塗り替えられていく。酒場で隣のテーブルが空くことは、もうなかった。代わりに、依頼の相談を持ちかけてくる冒険者が増えた。


「ロスト・エデンさん、北東街道の件で共同作戦を組みたいんだが」


「カイトさんだっけ? 今度うちのパーティと模擬戦やらない?」


 名前が、ようやく俺たち自身に追いついてきた。



 ◇



 ギルド本部の三階。ヘルムートの応接室。


 呼び出されて行くと、ヘルムートの机の上に一通の書状が置かれていた。蜜蝋の封印。見覚えのある鷹と剣の紋章——イレーネのパーティの紋章ではなく、冒険者個人の印。


「鉄騎の盟約のリーダー、イレーネ・ヴァルトシュタインから、あなたたちのAランク審査の推薦状が提出されました」


 ヘルムートの灰色の目が、書状を挟んで俺を見ている。


「Aランクの推薦には、現役Aランク冒険者の署名が二名以上必要です。イレーネの署名に加えて、鉄騎の盟約の副リーダーの署名もある。要件は満たしています」


「……受理してもらえるのか」


「受理します」


 ヘルムートが書状を引き出しに収めた。


「審査は来月。それまでに、もう少し実績を積んでおきなさい。Aランク審査は実技と面接。実技は本部が用意した模擬戦場での戦闘評価。……辺境のBランクがAランクに昇格した前例は、過去十年でゼロです」


「前例がないなら、作る」


 ヘルムートの灰色の目が、一瞬だけ止まった。それから、唇の端が微かに上がった。笑ったのではない。だが、計算の中に予想外の変数が入った時の、あの表情。


「……結果を見せていただけますか」


 いつもの台詞。だが、今日は少しだけ声の温度が違った気がした。



 ◇



 夜。宿の部屋。ノアを机の上に開いて、封印陣の分析の続きをしていた。


 地下水脈の壁面に刻まれていた紋様を、記憶から書き起こした紙。円形。放射状の線。風化した文字。ノアがその紙面を見つめている——魔導書に目はないが、開いた頁の上に紙を置くと、ノアの意識がそこに集中するのが分かる。紙の上を風が撫でるように、ノアの魔力が文字をなぞっている。


「分析が進んだ」


 ノアの声が、いつもより慎重だった。


「あの封印陣は、千二百年前の聖魔戦争の末期に設置されたものだ。当時、聖と魔の大規模衝突が大地に亀裂を走らせた。その亀裂から魔素脈——大地の深部に眠る魔素の本流が噴出した。各地で魔物が異常発生し、人間界が壊滅しかけた」


「それを封じたのが、あの封印陣か」


「そうだ。聖属性と魔属性の均衡を利用した封印。聖で魔素を抑え、魔で聖素の暴走を防ぐ。二つの力が釣り合うことで、亀裂を塞いでいた。……だが千二百年の歳月で、均衡が崩れ始めている」


「王都の地下だけの話じゃないんだな」


「この規模の封印陣が王都にあるなら、大陸中にある。辺境の霧喰い。エルデンのレヴナント。王都の水棲魔物。全て、各地の封印が同時に劣化している兆候だ」


 ノアの声が低くなった。


「そしてもう一つ。あの封印陣の紋様の中に、私の知らない文字があった。千二百年前の文字体系は把握しているが、あの文字だけは違う。もっと古い。……あるいは、人間が書いたものではない可能性がある」


「人間ではない?」


「天界か、魔界か。どちらかの存在が封印に関与していた可能性がある。……だとすれば、この封印の崩壊は、人間だけの問題ではなくなる」


 天界。魔界。千二百年前の戦争の残滓が、大陸を超えた規模の問題に繋がっていく。


 今の俺に、その全体像は見えない。だが、足元の地面が揺れ始めていることだけは分かった。



 ◇



 翌日の午後。リーゼが宿に戻ってきた。


 碧い瞳が、いつもと違う色をしていた。怒りではない。悔しさに近い。だが、悔しさの奥に希望が混じっている。髪に埃が少し付いていた。書庫の埃だ。古い紙とインクの匂いが、リーゼの服に染みついていた。


「どこに行ってたんだ」


「……王都の公立書庫。王立裁判所の判例記録を調べていたの」


 リーゼが机の上に、書き写したメモを広げた。几帳面な字。インクがところどころ滲んでいる。急いで書いたのだろう。シュタイン家に関する記録の抜粋。


「見つけたのね」


「見つけた。……一部だけ」


 リーゼの碧い瞳が、メモの上を走った。


「十年前のシュタイン家の裁判記録。父が横領の罪で有罪判決を受けた記録は、公開されていた。判決文。証人の名前。罪状。刑罰。……全部読んだ。父の名前が、犯罪者として記録されている。冷たい活字で」


 リーゼの声が微かに震えた。だが一瞬で止めた。この少女は、感情を表に出す前に飲み込む。


「だけど、核心が足りない」


「核心?」


「父が横領したとされる証拠の原本。証拠を提出した側の記録。裁判の非公開審理の議事録。……全部、『王立裁判所の非公開資料』として閲覧制限がかかっていた。一般の冒険者には閲覧権限がない」


 リーゼの手が、メモの端を掴んでいた。指先が白い。力が入っている。


「父は冤罪よ。横領なんてしていない。証拠は捏造されたの。……それを証明する資料が、あの壁の向こうにある。見えているのに、手が届かない」


 リーゼの碧い瞳が窓の外を見た。王都の街並み。その向こうに、王立裁判所の建物がある。白い石壁の、権威に覆われた建物。


「……まだ、方法はあるわ。閲覧権限を持つのは、裁判所の関係者と、貴族以上の身分の人間。……私にはないけれど、いつか」


 リーゼは「いつか」と言った。諦めではなく、保留。今は手が届かないが、いつか届く日が来る。そのために、力をつける。名前を上げる。


 俺はリーゼの肩に触れなかった。今のリーゼには、同情より沈黙が必要だった。碧い瞳の中の火が消えないように、風を送らない方がいい。


「Aランクに上がれば、世界が広がる。閲覧権限の壁も、越えられるかもしれない」


「……そうね」


 リーゼが顔を上げた。碧い瞳の中に、悔しさの色が薄まって、代わりに決意の光が戻っていた。


「もう一つ、理由ができたわね。Aランクに上がる理由」



 ◆



 王都の裏通り。安酒場のカウンター。


 レクスが空のジョッキを見つめていた。今日の依頼は下水路の清掃。Dランクの日雇い。報酬は銅貨八枚。灰色の聖剣は腰にあるが、今日も抜かなかった。


 隣にガルドが座った。


「……レクス……さん。聞いたんですけど。ロスト・エデンが、Aランク審査を受けるって」


 レクスのジョッキを握る手が、止まった。


「……そうか」


 二人の間に、空のジョッキだけが並んでいた。



 ◇



 夜。宿の窓から王都の夜景を見ていた。


 冬の王都。屋根に薄く雪が積もっている。通りの灯りが雪の上で滲んで、ぼんやりとした光の帯を作っている。静かな夜だった。


 大聖堂の尖塔が、闇の中に白く聳えている。ステンドグラスの灯りは消えている。深夜だ。大聖堂全体が暗い影のように、王都の中心に立っている。


 その時、灯りが点いた。


 大聖堂の最上階。窓の一つに、金色の光が灯った。一瞬だけ。蝋燭の光ではない。聖属性の光だ。金色。深い。微かだが、ここからでも分かるほどの強さ。


 すぐに消えた。


 窓が暗くなった。何事もなかったかのように。


「……見た?」


 隣にメルティアがいた。いつの間にか。赤い瞳が大聖堂の最上階を見つめている。


「見た。聖属性の光だった」


「最上階。審問局長の執務室よ」


 メルティアの声にいつもの軽さがなかった。♪がなかった。赤い瞳が暗い夜景を映していて、大聖堂の影が瞳の中に沈んでいた。


「……動き始めたわね」


 その一言が、冬の夜気より冷たかった。


 左腕の魔印が疼いた。鎖骨の上で、黒い紋様が脈打っている。大聖堂の金色の光に反応したのか。それとも、近づいてくる嵐の気配を、体が先に感じ取っているのか。


 窓の外の雪が、少し強くなった。白い粒が暗い空を舞っている。


 嵐が来る。教会の最深部から。審問局長ヴィクトル・ルミエールが。


 穏やかな微笑みの奥に、聖域を纏った男が。


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