第36話 大聖堂の影
シアが一人で出かけた。
朝食の後、「市場で食材を買ってきます」と言って、フードを深く被って宿を出ていった。銀色の髪を布の下に隠して、尖った耳をフードの影に収めて。
「一人で大丈夫か」
「大丈夫です。買い物くらい、一人でできます」
シアが微笑んで、扉が閉まった。小さな足音が廊下を遠ざかっていく。
気にはなった。王都の教会は、シアを追放した場所だ。大聖堂の尖塔が見える街を、追放された聖女が一人で歩く。何も起きない方がいいが。
「過保護ね」
メルティアがジョッキを傾けた。朝から麦酒。王都でもそれは変わらない。
「過保護じゃない。心配してるだけだ」
「同じことよ♪」
リーゼが「私が追いかけましょうか」と言いかけたが、やめた。シアが一人で行くと言った以上、それを尊重すべきだ。追放された場所の近くを一人で歩くことが、シアにとって必要なことなのかもしれない。
待つことにした。
◇
二時間後。シアが戻ってきた。
部屋の扉が開いた瞬間、分かった。何かがあった。
シアの顔色が白かった。頬の血の気が引いている。買い物袋を両手で抱えているが、指先が震えている。紫の瞳が揺れていた。大きく、深く。泣いてはいない。だが、泣く手前の顔をしていた。フードが少しずれていて、尖った耳の先端が見えている。
外の匂いを纏っていた。市場の果物の甘い匂いと、冬の風の冷たい匂い。だがその下に、もう一つ。白檀に似た香り。教会の香。大聖堂の近くを通ったのだ。
「シア?」
「……ただいま戻りました」
声は普通だった。だが、声が普通であること自体が異常だった。シアは感情を隠すのが下手だ。声を普通に保つために、全力で自分を抑え込んでいる。
リーゼが椅子を引いた。碧い瞳が心配の色を帯びている。「座りなさい」。シアが座った。買い物袋をテーブルに置いた。袋の中から野菜と肉と、冬の果物が覗いている。ちゃんと買い物はしてきている。だが、果物の上に水滴がついていた。露か、涙か。
メルティアが紅茶を淹れた。シアの前に置いた。シアが両手でカップを包んだ。温かいものに触れて、指の震えが少し収まった。
「……何があった」
「大聖堂の前を、通りかかりました」
シアの声が小さかった。紅茶の湯気が紫の瞳の前で揺れている。
「市場への近道が、大聖堂の前の広場を通る道だったんです。……分かっていたのに、その道を選んでしまいました」
分かっていたのに。その言葉が、シアの本音だった。近道だから選んだのではない。行きたかったのだ。大聖堂の前に。追放された場所の前に。自分が変わったかどうかを、確かめたかった。
「大聖堂を見上げました。白い尖塔。ステンドグラス。鐘の音が鳴っていました。朝の祈りの鐘。……あの音を聞いた瞬間、足が止まりました」
シアの手がカップを握る力が強くなった。紅茶の水面が微かに揺れた。
「あの廊下を思い出しました。追放された日の白い廊下。聖職者たちが並んでいて、誰も私を見なかった。目を逸らして、壁を見ていた。私が通り過ぎるのを、待っていた。……あの日の足音が、まだ聞こえるんです。石の廊下に響く、自分の足音」
リーゼが何も言わずにシアの隣に座った。シアの肩に手を置くか迷って、やめた。触れるより、隣にいることを選んだ。
「大聖堂の門から、人が出てきました。若い聖職者。……私を知っている人でした」
シアの紫の瞳が、紅茶の水面を見つめていた。
「『シア様?』と呼ばれました。かつての同僚です。聖属性の訓練を一緒に受けた人。……驚いた顔をしていました。私が生きていることに驚いたのか、王都にいることに驚いたのか。両方だったと思います」
「何を話した」
「短い立ち話でした。その人は……悪意はなかったと思います。ただ驚いていて、話したかったんだと思います。『お元気でしたか』『今はどうされているんですか』。……そして」
シアの声が、一瞬途切れた。
「『悪魔契約者のパーティに?』と聞かれました。噂は教会の中にも届いているようです。私は答えました。『私は、私の信じることをしています』と」
静かだが、揺るぎない声。シアの紫の瞳が、紅茶から上がって俺を見た。
「その言葉は、本当です。ここにいることを、後悔していません」
「ああ。知ってる」
シアが微かに笑った。笑えるなら大丈夫だ。だが、まだ話は終わっていなかった。笑った直後に、シアの目が再び伏せられた。
「……もう一つ。その人が言ったんです。『最近、辺境の村で聖属性の治療を受けている少女がいると聞きました。シア様がお通いに?』と」
空気が変わった。
メルティアのジョッキが、テーブルの上で止まった。赤い瞳が、一瞬で鋭くなった。
「教会が、ユイのことを知っている」
「……はい。まだ詳しくは知られていないと思います。ただ、『辺境の村で聖属性の治療を受けている少女がいる』という情報だけ。ユイちゃんの名前や、病状や、……その他のことは、まだ」
その他のこと。ユイの「魔力が視える目」。それはまだ漏れていない。シアでさえ、ユイの目の特性には気づいていない。今のところ。
だが、「追放された聖女が辺境の少女を治療している」という情報だけで、教会の関心を引くには十分だ。シアは教会の「不安定要素」として認識されている。そのシアが定期的に治療に通っている少女がいる。教会が調べ始めれば、ユイに辿り着く。
「……ごめんなさい。私が通っていたことで、ユイちゃんのことが教会に——」
「シア」
声を遮った。シアの紫の瞳が俺を見た。涙が、目の縁に溜まっていた。溢れてはいない。ぎりぎりで。
「お前のせいじゃない」
「でも——」
「シアがユイを治療してくれていることを、俺は感謝してる。ユイが普通にご飯を食べられるようになったのは、シアのおかげだ。それを後悔するな」
シアの唇が震えた。涙が一滴、頬を伝った。拭わなかった。俺の言葉を聞いていた。
「教会がユイに手を出すなら、俺が止める。それだけだ」
「…………はい」
シアが紅茶を啜った。温かい液体が喉を通る音が、静かな部屋に響いた。紫の瞳の涙が乾いていく。少しずつ。
リーゼがシアの肩に手を置いた。今度は迷わなかった。シアが少しだけ体を傾けて、リーゼの手の温度に触れた。
◇
夜。リーゼとシアが先に寝た後、メルティアが部屋に残っていた。
窓辺に立っている。赤い瞳が、王都の夜景を見ている。大聖堂のステンドグラスの光が、闇の中に色を落としている。
「カイト」
「ん」
「教会がユイちゃんに興味を持つ理由は、治療だけじゃないかもしれないわね」
メルティアの声が低かった。いつもの軽さがない。♪がない。
「……どういう意味だ」
「シアちゃんの聖属性治療を受けて、ユイちゃんの体調が改善している。それは事実。でも、魔素病の子供が聖属性の治療に『あれほど好反応を示す』のは、普通じゃないのよ」
メルティアの赤い瞳が、窓の外から俺に向いた。
「普通の魔素病患者なら、聖属性の治療は進行を緩やかにする程度。症状の改善はあっても、『普通のご飯が食べられるようになる』レベルの劇的な変化は起きない。……ユイちゃんの体には、聖属性と異常に高い親和性がある。それが何を意味するのか」
「……メルティア。お前は何を知っている」
「確証はないわ。だから言わない。確証のない推測でカイトを混乱させたくない」
メルティアの赤い瞳が、俺を見つめていた。蝋燭の光が瞳の中で揺れている。この千年の悪魔は、何かを感じ取っている。ユイの体に関する何かを。だが、今は言わない。
「ただ、一つだけ」
メルティアの声が、静かに響いた。
「教会がユイちゃんに辿り着いた時、興味を持つのは『治療を受けている少女』としてではないかもしれない。……ユイちゃん自身の『素質』に、教会が気づく可能性がある」
素質。ユイの、何の素質。
問い返す前に、メルティアが窓を閉めた。ガラスが嵌まる音。冬の夜風が遮断されて、部屋に蝋燭の温もりだけが残った。大聖堂のステンドグラスの光が、閉じた窓の向こうでぼんやりと滲んでいた。
メルティアはそれ以上言わなかった。「おやすみ」と一言だけ残して、隣の部屋に消えた。赤い瞳の奥に灯っていた何かを、俺は読み取れなかった。
一人になった部屋で、窓の外を見た。大聖堂の白い尖塔。ステンドグラスの色彩。あの建物の中に、シアを追放した者たちがいる。ヴィクトルがいる。そして今、あの建物の中で、ユイの存在が認知され始めている。
シアの善意が、意図せずユイを照らし出し始めている。
善意がもたらす光は、影も落とす。光が強いほど、影は濃くなる。
左腕の魔印が、鎖骨の上で脈打っていた。守るべきものが、また一つ、危険にさらされようとしている。
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