第34話 銀縁の眼鏡
地下水脈の依頼を報告した夜だった。
宿の部屋。リーゼとシアとメルティアは隣の部屋で寝ている。俺だけが起きていた。窓際の机にノアを広げて、封印陣の紋様を記憶から書き起こしていた。地底湖の壁面に刻まれていた円形の紋様。放射状の線。読めない文字。
ノアが紋様の分析を続けている。「この線の配置は……六芒の変形だな。聖属性と魔属性の均衡を保つ構造。だが中心部の結節点が崩れかけている。ここから魔素が漏れ出している」
集中していた。だから、気配に気づくのが遅れた。
窓の外。
空気の質が変わった。冬の夜風とは異なる、微かな圧力。聖属性の残滓。薄い。だが確実にある。左腕の魔印がちりと反応した。ごく軽い灼熱感。
窓を開けた。
冬の夜の匂いが流れ込んできた。石壁の冷たい匂い。遠くの暖炉の煙の匂い。そして、微かに混じる白檀に似た香り——教会の法衣に焚き染められる香。
向かいの屋根の上に、人影が立っていた。
白い法衣。月明かりに照らされて、布が青白く光っている。銀縁の眼鏡が月光を反射して、一瞬だけ白く光った。痩身長躯。口元に薄い笑み。
目は、笑っていなかった。
「お久しぶりです、灰原カイト」
マルクス・ヴァレンティ。異端審問局第三席。
体が反射的に構えた。右手に火が灯りかける。前回会った時は戦闘になった。聖鎖に拘束され、魔属性を封じられ、シアの介入がなければ負けていた。
だが、マルクスの態度が違った。
聖鎖が展開されていない。金色の光の粒子が漂っていない。法衣の下に隠された十字架も、聖属性の光を放っていない。戦闘態勢ではなかった。
ただ、屋根の上に立っている。腕を組んで。月明かりの中で。
「……お元気そうで何よりです。データ通りですね」
データ。この男らしい。
「マルクス。何をしに来た」
「単刀直入ですね。嫌いではありませんよ、その性格」
マルクスが屋根の端に座った。足を組んで、俺の窓と同じ高さに目線を合わせた。三メートルの距離。屋根と窓の間に、冬の夜風が通り抜けていく。
「今日は任務ではありません。個人の判断で来ました」
「個人の判断?」
「ええ。……審問局長が動く前に、あなたに伝えておきたいデータがある。それだけです」
眼鏡の奥の瞳が、月明かりの中で静かに光っていた。冷徹な目。だが、以前見た「任務に忠実な審問官」の目とは、微かに色が違う。何かを計算している目ではなく、何かを計算し終えた後の目。
「……聞く」
「ありがとうございます。では、手短に」
マルクスが眼鏡を押し上げた。薄い笑みが消えた。代わりに、報告者の顔になった。
「異端審問局第一席。局長。ヴィクトル・ルミエール。齢五十。教会における聖属性の最高権威であり、審問局の実質的な武力の頂点です」
ヴィクトル・ルミエール。名前は初めて聞いた。だが、「桁が違う」と警告された相手だ。
「スキルは【聖域】。私の聖鎖とは次元が異なります。聖鎖は聖属性の魔力を物理的な鎖として具現化する——つまり、形があり、数があり、破壊できる。ですが、聖域はそうではない」
マルクスの声が、一段低くなった。
「聖域は、空間そのものに聖属性を浸透させます。範囲内では、魔属性が存在できない。魔法が発動しない。悪魔の力が抑え込まれる。……私の聖鎖が『拘束』なら、局長の聖域は『否定』です。概念レベルでの排除」
概念レベル。物理的に壊せる鎖ではなく、そもそも魔が「存在できない」空間。聖鎖を聖魔同時攻撃で突破した時の戦術は、聖域には通用しないということだ。
「範囲は最大半径五十メートル。聖属性の濃度を自在に調整できます。全力展開では、空気そのものが金色に染まる」
五十メートル。その範囲内に入った瞬間、俺の魔属性は消える。メルティアは力を抑え込まれる。蝕すら——光と闇の融合であって魔属性ではないが、聖域の中で正常に発動できるかは未検証だ。
「性格について言えば」
マルクスが、ここで初めて間を置いた。言葉を選んでいる。この合理主義者が言葉を選ぶということ自体が、次に来る情報の重さを示していた。
「私とは正反対の人物です。私は論理と数字で判断する。局長は信仰で判断する。『異端は穢れ。穢れは浄化しなければならない』。それが局長の信念です」
「狂信者か」
「いいえ。狂信者ではありません。狂信者は疑問を拒絶する。局長にはそもそも疑問が存在しない。穢れを浄化することに、一片の迷いもない。……静かで、穏やかで、絶対に揺るがない」
マルクスの眼鏡の奥の目が、一瞬だけ細くなった。
「正直に言えば、私が最も恐れる上官です」
マルクスが「恐れる」という言葉を使った。この男が恐怖を口にするのを、初めて聞いた。
「局長の目的は、あなたの排除ではありません。浄化です。殺すのではなく、悪魔の契約を聖属性で焼き切ることを目指している」
「焼き切る……?」
「聖域の圧力で、魔印を構成する悪魔の魔力を灼き尽くす。契約の結節点を聖属性で破壊する。成功すれば、あなたの魂は悪魔界から解放される。……一見、救済に聞こえるでしょう?」
マルクスの薄い笑みが、苦いものに変わった。
「ですが実態は違う。契約を焼き切れば、全属性の力も消える。あなたは元の【魔力親和・F】に戻る。そして——魔印は消えない。契約の代償として刻まれた紋様は、力を失った後も体に残り続ける。力を奪われ、代償だけが残る。実質的な廃人化です」
夜風が吹いた。冷たい風が窓から入り込んで、部屋の空気をかき混ぜた。ノアが開いたまま机の上にある。千年の魔導書が、沈黙している。マルクスの言葉を聞いている。
「……なぜ教えてくれる。お前は教会側の人間だろう」
聞かなければならなかった。この男が敵であることに変わりはない。少なくとも、組織としては。
マルクスが月を見上げた。冬の夜空。薄い雲の向こうに月が白く浮かんでいる。銀縁の眼鏡に月光が映って、レンズの中に小さな月が二つ灯った。
「データに基づいて判断するのが、私の流儀です」
声が、いつもの冷徹さに戻った。だが、その冷徹さの下に、何かが透けていた。
「そして現在のデータは、あなたを排除するより活用する方が合理的であることを示しています。辺境の魔物異常。王都の地下水脈の汚染。大陸規模で何かが起きている。その情報は教会にも届いている。……この状況で、全属性使いを浄化して無力化することが最適解か? 私の分析は、そうは言っていない」
合理主義。論理。この男はいつもそうだ。感情ではなく、数字で動く。
だが——ラスティカで戦った時、去り際にこの男は言った。「聖と魔の調律。あれは美しいものでした」。データ主義者が「美しい」と言った。あの一言が、マルクスの中で何かを変えたのかもしれない。
「辺境で見た聖と魔の調律。あれは美しいだけでなく、有用でした。聖属性と魔属性の共存。それが大陸規模の異変に対する解の一つになり得る。……その事実を、私は無視できない」
マルクスが立ち上がった。屋根の上で、白い法衣が月光に揺れた。
「一つ助言を」
声が、少しだけ柔らかくなった。マルクスの声に柔らかさが混じるのは、これが初めてだった。
「王都にいる間に、国王の目に留まることです。教会が動く前に、教会より上位の権力を味方につけること。……それが、データが示す最適解です」
「国王の目に留まる方法は?」
「ギルドの依頼をこなし続けること。王都の安全に貢献すること。あなたの存在が王国にとって有益であるという実績を、積み上げること。……数字は嘘をつきません」
マルクスが背を向けた。屋根の端に立つ。月を背にしたシルエット。痩身長躯の、白い法衣の男。
「マルクス」
「何ですか」
「お前、教会に戻って大丈夫なのか。個人の判断で敵に情報を渡したことが知れたら」
マルクスが振り返った。銀縁の眼鏡の奥で、冷徹な目がわずかに緩んだ。笑ったのではない。だが、目の温度が一度だけ上がった。
「ご心配には及びません。私は教会の人間です。ただし、データが示す最適解に従う教会の人間です。……局長の方針が最適解から外れるなら、私は最適解の方を選びます」
「それは……反逆ではないのか」
「反逆ではありません。最適化です」
マルクスが、屋根の上から消えた。
音もなく。気配も残さず。白い法衣が月光の中に溶けるように消えて、後には冬の夜風だけが残った。
◇
窓辺に立ったまま、しばらく動けなかった。
ノアの声が聞こえた。
「面白い男だ。千年生きたが、あの手の合理主義者が信仰の組織の中で叛旗を翻すケースは、歴史上何度も見てきた。……データが信仰と相容れなくなった時、あの男はデータを選ぶ。それは信仰者として見れば裏切りだが、合理主義者として見れば一貫性だ」
「味方になるのか」
「味方ではない。共通の利害を持つ他人だ。……だが、そういう相手が一番信用できる。感情で繋がった味方は、感情で裏切る。利害で繋がった他人は、利害が一致する限り裏切らない」
窓を閉めた。ガラスに結露が浮いている。指で触れると、冷たい水滴が流れ落ちた。
審問局の内側から、亀裂が入り始めている。
マルクスという名の亀裂。データという名の裂け目。信仰と合理の間の、細い割れ目。
それが味方になるのか、それとも別の嵐を連れてくるのか。今は分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
国王の目に留まること。数字で証明すること。教会が動く前に、盾を手に入れること。
やるべきことは、明確だった。
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