第31話 王都レグナシオン
馬車で五日間、走った。
最初の二日は見慣れた景色だった。枯れ草の丘陵が両側に広がり、街道の轍が乾いた土に刻まれている。風が冷たくて、幌の隙間から入り込む空気が頬を刺す。エルデンへの遠征で通った道と同じ方角。だが、エルデンで曲がらずにそのまま南東へ進む。
三日目から景色が変わった。
丘陵がなくなった。代わりに、平坦な農地が地平線まで広がっている。冬枯れの畑。土の色が辺境とは違う。黒い。肥沃な土壌。農家の屋根が点々と見えていて、煙突から白い煙が立ち上っている。すれ違う馬車が増えた。荷馬車。人を乗せた客馬車。騎馬の早駆け。道幅が広くなり、石畳に変わった。
四日目、街道の両側に宿場町が並び始めた。ラスティカよりも大きい町が、点ではなく線になって街道沿いに連なっている。人が多い。市場がある。鍛冶屋がある。教会の小さな礼拝堂がある。
シアがフードを深く被り直した。礼拝堂の十字架を見るたびに、紫の瞳が強張る。リーゼが何も言わずにシアの隣に座り直した。
五日目の朝。
馬車の幌の隙間から前方を見た瞬間、息を呑んだ。
城壁が見えた。
巨大だった。ラスティカの街壁とは比較にならない。灰色の石を積み上げた壁が、地平線を横に切るように伸びている。壁の高さは二十メートル以上。所々に白い塔が突き出していて、旗が翻っている。壁の向こうに、さらに高い構造物の影が見える。
そして、壁の最も奥。空を突くように聳える白い尖塔。
大聖堂。
白い大理石の尖塔が、冬の曇り空を貫いている。遠くからでも分かるほどの巨大さ。街全体の中心に、天に向かって指を伸ばしている。
シアの手が震えていた。膝の上で握りしめた両手が、白くなっている。尖塔を見つめている。あの塔の下に、シアを追放した者たちがいる。
リーゼがシアの手を握った。黙って。シアの紫の瞳が、リーゼの碧い瞳を見た。震えが、少しだけ治まった。
メルティアは窓の外を見ていた。赤い瞳に大聖堂の尖塔が映っている。表情はいつもの微笑み。だが、膝の上に置いた手の指が、外套の布を摘んでいた。千年の悪魔にとっても、教会の総本山は居心地の良い場所ではない。
「……でかいな」
「ええ。でかいわね」
メルティアの声は軽かった。だが「♪」はつかなかった。
◇
外壁の門をくぐった。
音がぶつかってきた。人の声。馬車の車輪。馬の蹄。鍛冶の槌。子供の笑い声。叫び声。客引きの声。鐘の音。重なり合う音の壁が、門を抜けた瞬間に四方から押し寄せてきた。
匂いがぶつかってきた。香辛料。焼き肉。革。汗。馬糞。花。パン。酒。甘い匂いと臭い匂いが混ざり合って、鼻の奥が痺れる。ラスティカの澄んだ冬の空気が、ここにはない。代わりに、五十万人の人間が呼吸している空気がある。
通りを歩いた。人の波。肩がぶつかる。すれ違う人間の多さに、体が勝手に身構えた。辺境では見知った顔ばかりだった。ここでは、すべてが他人の顔だ。
建物が高い。三階建て、四階建て。窓にガラスが嵌まっている。ラスティカでは木の板を打ちつけた窓が普通だった。ここではガラスの向こうに灯りが見えて、人の影が動いている。
市場を通り抜けた。野菜と果物と肉と魚が山積みになっている。辺境では見たことのない色の果物。南国の香辛料。絹の布地。銀の装飾品。商品の種類が、ラスティカの十倍はある。
五感が情報量に圧倒されていた。これが王都か。人口五十万。辺境の百倍の密度。
「カイトさん、口が開いてますよ」
シアが小さく笑った。さっきまで震えていた少女が、俺の間抜けな顔を見て笑っている。
「……慣れてないだけだ」
「私も慣れてません。でも、カイトさんの方が驚いた顔してます」
リーゼが鼻で笑った。「シアに笑われるなんて、情けないわね」。メルティアが「田舎者の反応ね♪」と楽しそうに言った。♪が戻っている。俺が間抜けな顔をしたおかげで、四人の緊張が少し解けた。
◇
ギルド本部は外壁内の大通りに面した五階建ての石造りの建物だった。
入口の扉が重い。真鍮の取っ手を押して中に入ると、ラスティカの支部とは別世界だった。
広い。天井が高い。一階の全フロアが受付と酒場と掲示板で構成されていて、受付カウンターが横に二十メートル以上伸びている。受付嬢が——数えた——二十三人。掲示板は壁の四面を覆い尽くしていて、依頼書が隙間なく貼られている。その数は、ざっと見て五百を超えていた。
冒険者が大勢いた。鎧を着た者、ローブを纏った者、革鎧の軽装の者。テーブルを囲んで地図を広げている者もいれば、カウンターで酒を飲んでいる者もいる。
受付カウンターで名前を告げた。
「パーティ『ロスト・エデン』。ラスティカ支部所属、Bランク。王都本部からの招集書状に応じて出頭しました」
受付嬢が書類を確認した。「……ロスト・エデン。はい、確認が取れました。少々お待ちください」
待っている間、周囲の空気が変わったのが分かった。
近くのテーブルにいた冒険者が、俺たちの方を見ている。受付嬢同士が小声で何か囁き合っている。酒場の奥から、視線が飛んでくる。
「あれだろ。噂の……」
「辺境で教会の討伐隊を退けたって」
「Bランクか。見た目は大したことないな」
「銀髪の小さいのが聖女。赤い目の美女が……何者だ?」
「灰色の髪の男が全属性使い。悪魔契約者」
囁き声は聞こえるように囁かれていた。辺境の酒場と同じだ。場所が変わっても、人間の習性は変わらない。
「ロスト・エデンの皆さん、三階の応接室へどうぞ。ギルドマスターがお待ちです」
三階。階段を上がる。廊下は磨かれた石の床で、壁に歴代のギルドマスターの肖像画が並んでいた。金縁の額。油絵。辺境のギルドには肖像画などなかった。
応接室の扉が開いた。
男が立っていた。
銀髪のオールバック。鋭い灰色の目。痩身で背が高い。黒のフロックコートを隙なく着こなしていて、胸にギルドの紋章が留められている。元冒険者には見えない。書斎から出てきた学者のような佇まい。
「ようこそ、ロスト・エデン」
声は丁寧だった。だが、温度が低い。ドルクの声が焚き火なら、この男の声は磨かれたガラスだ。
「ヘルムート・ヴァイス。冒険者ギルド王都本部のギルドマスターを務めています」
灰色の目が、俺たちを順に見た。カイト。リーゼ。シア。メルティア。一人ずつ、数秒ずつ。品定め。冒険者を見る目ではなく、書類の数字を読む目。
「あなたたちの実績は聞いています。嘆きの将軍の討伐。異端審問官マルクス・ヴァレンティの撃退。教会討伐隊との交戦と勝利。エルデンでのレヴナント討伐。……Bランクとしては、異例の実績です」
「ありがとうございます」
「ただし」
ヘルムートの灰色の目が、微かに細まった。
「王都では、辺境のようにはいきません。この街には冒険者ギルドだけでなく、教会と王家がある。三つの権力の間で、冒険者は駒です。優秀な駒は守られますが、使えない駒は切り捨てられる。……あなたたちの実力を、数字で見せていただけますか」
数字で。ドルクなら「腕を見せろ」と言うところを、この男は「数字で」と言った。
「依頼の達成率。速度。効率。被害の最小化。それが、王都でのBランク以上のパーティに求められる指標です」
「了解しました」
「明日から、王都周辺の依頼に参加していただきます。魔物の異常発生が続いています。腕を見せてもらいましょう」
ヘルムートが書類を差し出した。依頼のリストだった。五件。どれもBランク相当。
「宿はギルドの提携宿を用意しました。外壁内の東区。……何か質問は?」
「一つだけ。魔物の異常発生の原因は、分かっているのか」
ヘルムートの目が、一瞬だけ止まった。
「……まだ調査中です。原因が判明次第、関係するパーティに情報を共有します」
嘘ではないだろう。だが、全てを言ってもいない。この男は、情報を小出しにする。
「では、よい滞在を」
ヘルムートが扉を開けた。面会は終わった。淡泊だった。ドルクとの初対面が二十分の雑談だったのと比べると、五分の事務処理だった。
◇
宿に向かう途中、道を間違えた。
王都の通りは複雑だった。ラスティカの三本の大通りと違い、王都は路地が蜘蛛の巣のように入り組んでいる。一つ角を曲がり損ねて、裏通りに入ってしまった。
裏通り。表通りの喧噪が嘘のように静かだ。石壁に挟まれた細い路地。日差しが届かず、冬の冷気が溜まっている。壁に苔が生えていて、湿った匂いがする。
路地の奥に、安酒場があった。
板を打ちつけただけの扉。汚れた看板。灯りが薄い。中から酒と煙の匂いが漏れ出している。
通り過ぎようとした時、扉の隙間から中が見えた。
金色の髪。
カウンターに一人で座っている男。薄汚れた革鎧。背中が丸まっている。カウンターの上にジョッキが三つ。空のジョッキ。隣の席が空いている。
一瞬しか見えなかった。だが、その金色の髪を見間違えるはずがない。三年間、その背中を見て歩いてきた。
レクス。
足が止まった。
「行きましょう」
メルティアの声が、静かに響いた。赤い瞳が俺を見ている。路地の奥の安酒場を、見ていない。見ないようにしている。
「……ああ」
足を動かした。裏通りを抜けて、表通りに戻った。
振り返らなかった。
振り返ったら、何をすればいいのか分からなかったから。
◇
宿の部屋。窓から王都の夜景を見ていた。
無数の灯り。建物の窓から漏れる灯り。街灯の灯り。馬車に揺れる提灯。通りを行き交う人々の松明。星のように散らばった光が、王都の輪郭を浮かび上がらせている。
そして、街の中心に、大聖堂。
ステンドグラスが内側から照らされていた。色ガラスの赤と青と金が、夜の闇の中に浮かんでいる。美しい。神聖で、荘厳で、人を惹きつける光。
だが、あの光の中に、俺を排除しようとする力がある。聖域を展開する穏やかな男がいる。「浄化しましょう」と微笑む男がいる。
左腕の魔印が、鎖骨の上で微かに疼いていた。大聖堂の光に反応しているのか。それとも、王都の空気に含まれる聖属性の残滓を感じ取っているのか。
リーゼが隣に来た。窓の外を一緒に見ている。
「大きい街ね」
「ああ」
「でも、街は街よ。人が住んでいて、飯を食って、寝て、起きる。辺境と同じ。大きさが違うだけ」
「……そうだな」
「負けないわよ。ここでも」
リーゼの碧い瞳が、大聖堂のステンドグラスの光を映していた。赤と青と金の色が碧の中に溶けて、複雑な光を作っている。
辺境の追放者たちは、王都の舞台に立った。
小さなパーティ。四人。追放者と悪魔と聖女と没落貴族。
この街で、何が待っているのか。まだ分からない。だが、逃げるつもりはなかった。
窓を閉めた。冷たいガラスの感触が指に残った。
明日から、王都での戦いが始まる。
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