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第28話 鎖骨を超えて

 シアがミルフィ村から帰ってきた日の夜だった。


 宿の部屋。暖炉の火が低く燃えている。リーゼは先に寝ていて、薄い寝息が聞こえる。


「カイトさん。治療の時間です」


 シアが椅子を引いた。毎晩の習慣。俺が左腕の袖をまくり、シアが両手を魔印の上に置いて、白銀の光を流し込む。魔印の脈動が穏やかになる。聖属性が魔印の進行を抑えている間だけ、左腕の灼けるような熱が引く。


 シアの手が温かかった。聖属性の光の温度。暖炉の熱とは違う、体の内側に沁みていく温かさ。


 だが今夜、シアの手が止まった。


 指先が、左腕から肩を辿って、鎖骨の辺りで動きを止めた。紫の瞳が、魔印の縁を見つめている。


「……カイトさん」


「ん?」


「少し、襟を開いてもらえますか」


 言われるまま、外套の襟を緩めた。鎖骨が露出する。


 シアの紫の瞳が見開かれた。


 魔印が、鎖骨を超えていた。


 ほんの数ミリ。肩の付け根から鎖骨に沿って伸びた黒い紋様が、鎖骨の上端を越えて、首の方向に向かって細い線を伸ばし始めていた。前回シアが確認した時は、鎖骨の手前で止まっていたはずだ。


「……広がってる」


 シアの声が小さかった。


「前回見た時より、三ミリくらい。鎖骨の上に出ています」


「三ミリか。それくらいなら——」


「三ミリは大きいです」


 シアの声が、静かだが鋭かった。俺の軽い反応を許さない声。


「魔印の進行は、マルクスさんとの戦闘以来、止まっていたはずです。私の治療で抑えて、鎖骨の手前で留まっていた。それが動いたということは」


エクリプスを使ったからだろうな。レクスとの戦闘で」


「……はい。おそらく。光と闇の融合は禁忌属性ではありませんが、魔印に負荷をかけた可能性があります」


 シアの両手が、鎖骨の上の魔印に白銀の光を当てていた。丁寧に。だが、光が魔印に染み込む速度が、肩の部分より遅い。進行した部分は、聖属性の浸透が弱い。


「……今日はここまでにしましょう。明日、もう一度やります」


「ああ。ありがとう」


 シアが部屋を出ていく背中を見た。銀色の髪が暖炉の残り火に照らされて、オレンジ色に縁取られていた。


 シアの足取りが、いつもより少しだけ速かった。



 ◇



 廊下に出たシアは、メルティアの部屋の扉を叩いた。


 夜更けだった。だが、扉はすぐに開いた。メルティアは起きていた。赤い瞳が、シアの顔を見た瞬間に、何かを読み取ったようだった。


「……入って」


 メルティアの部屋。窓際のテーブルに蝋燭が一本。赤い瞳が蝋燭の光を映して、暗い部屋の中で二つの紅い点になっていた。


「魔印のことね」


 シアが何も言わないうちに、メルティアが言った。


「広がっているのは分かっていたわ」


「……知っていたんですか」


「私はカイトの契約者の悪魔よ。あの子の体に刻まれた魔印は、私の契約の一部。魔印が動けば、私にも分かる」


 メルティアの声は平坦だった。いつもの軽さがない。「♪」がない。蝋燭の光が揺れて、メルティアの顔に影を作っている。


「止められないんですか」


「止められない」


 短い答えだった。だが、その二音の間に、メルティアの右手が膝の上で一瞬だけ握りしめられたのを、シアは見た。すぐに開いた。力が抜けた。だが、爪が掌に食い込んだ跡が、蝋燭の光に薄く光っていた。


「魔を使うたびに魔印が広がるのは、契約の条項。カイトが力を使えば使うほど、魔印は進行する。私にも止められないの。……契約を結んだのは、私だから」


 メルティアの声の最後が、微かに掠れた。聞き逃しそうなほど微かに。


「メルティアさん——」


「大丈夫よ♪」


 笑顔が戻った。だがその笑顔が戻るまでの間——蝋燭の炎が一度揺れてから次に揺れるまでの、その間——メルティアの赤い瞳に映っていたものを、シアは見てしまった。


 名前のつかない感情。千年の存在が、数ヶ月の契約者のために抱いている、自分でも処理しきれない何か。


 シアは何も言わなかった。言えなかった。代わりに、小さく頭を下げた。


「……おやすみなさい、メルティアさん」


「おやすみ、シアちゃん」


 廊下に出た。扉が閉まった。


 扉の向こうで、蝋燭の光が消えた。暗闇の中で、メルティアが何をしているのか、シアには分からなかった。



 ◇



 ミルフィ村。同じ夜。


 診療所の小さな部屋。窓の外に冬の星空が見えている。ユイは布団の中にいた。


 シアが帰った後、眠れなかった。


 体は楽になっている。シアの治療のおかげで、朝起きるのが苦ではなくなった。食事も普通に食べられる。咳も減った。体の中の重たいものが、少しずつ軽くなっている実感がある。


 だが、目を閉じると、浮かんでくるものがある。


 今日、お兄ちゃんが来てくれた。笑っていた。いつも通りの、安心させるための笑顔。シアちゃんの治療の話をしてくれて、「順調だ」と言ってくれて、仕送りの袋を置いてくれた。


 だが、ユイの目には見えていた。


 お兄ちゃんの左腕。黒いもやもやが、前より大きくなっている。


 ユイにはそれが見える。いつからだか分からない。物心ついた時から、魔力の流れが色で見えていた。人の体の周りに薄い光が漂っていて、それが健康な時と病気の時で色が違う。シアちゃんの光は綺麗な白銀。リーゼさんの光は鋭い碧。メルティアさんの光は深い赤。


 そしてお兄ちゃんの左腕の光は、黒い。


 最初に気づいたのは、お兄ちゃんが辺境に来てから初めてお見舞いに来てくれた日だった。あの時、左腕の手首から肘のあたりに、墨を流したような黒い靄があった。お兄ちゃんには見えていないようだった。ユイにだけ見える。


 あの時は、黒い靄は手首から肘までだった。


 今日は、肩を超えて、鎖骨のあたりまで来ていた。


 広がっている。


 手紙に書いた。「お兄ちゃんの左腕、色が変わってた」。返事はなかった。お兄ちゃんは「大丈夫」と言った。大丈夫じゃなくても、大丈夫って言う人だ。


 ユイは布団の中で、自分の手を見た。細い指。血管が透けて見える白い肌。この手の周りにも、薄い光がある。ユイの光は、紫がかった灰色。お兄ちゃんの瞳の色と似ている。


 言うべきだろうか。


 お兄ちゃんの左腕の黒い靄が広がっていることを。ちゃんと、言葉にして。


 でも、言ったらどうなる。


 お兄ちゃんは心配する。無理をやめるかもしれない。危ない魔法を使わなくなるかもしれない。


 でも、お兄ちゃんが無理をやめたら、お金が入らなくなる。仕送りが止まる。シアちゃんの治療も、薬も、食べ物も。全部止まる。


 そして、ユイの体はまた悪くなる。


 言えば、お兄ちゃんが壊れるかもしれない。言わなければ、ユイ自身が壊れるかもしれない。


 どちらを選んでも、誰かが壊れる。


 この兄妹は、互いを守るために嘘をつく。その嘘が、互いを少しずつ追い詰めている。


 ユイは窓の外の星を見た。冬の星空。綺麗だった。星の光にも色がある。白い星、青い星、赤い星。ユイの目には、星の周りにも淡い光の輪が見えていた。


 目を閉じた。


 明日、シアちゃんが来る日だ。シアちゃんの白銀の光は、温かい。あの光に包まれている間は、体の中の重たいものが溶けていく。


 シアちゃんになら、言えるかもしれない。


 お兄ちゃんには言えないことを。


 ……でも、今日はまだ、言わないでおこう。


 ユイは布団を頭まで被って、目を閉じた。冬の夜。診療所の薬草の匂い。窓の隙間から入る冷たい空気。


 眠れるまでに、少し時間がかかった。



 ◇



 翌朝。宿の部屋。


 ノアの声が、外套の中から聞こえた。


「カイト。話がある」


 朝の支度をしている最中だった。リーゼとシアとメルティアはもう酒場に降りている。部屋に一人の時を狙ったように、ノアが口を開いた。


「魔印の進行速度を計測し直した。シアの治療データとの比較で、推移が見えてきた」


「……聞く」


「結論から言う。進行速度が、半年前の1.3倍になっている」


 数字が、朝の冷たい空気の中に落ちた。


「1.3倍。エクリプスを使った影響が残っている可能性が高い。光と闇の融合は禁忌属性ではないが、魔印の構造に負荷をかけた。一度広がった魔印は、元の進行速度に戻らない。加速した分が蓄積される」


「……つまり、蝕を使うたびに、魔印の進行が早まるということか」


「その通りだ。そして、今後禁忌属性の魔を使えば、加速はさらに跳ね上がる。蝕の比ではなく」


 窓の外を見た。ラスティカの冬の朝。白い息。霜が降りた石畳。日常の風景。


「今後の見通しは」


「現在の進行速度を維持し、禁忌属性を使用しなかった場合。……魔印が全身の60%に達するまで、推定で4年から5年」


 4年から5年。以前はもっと漠然としていた。「いつか」という曖昧な脅威だった。今、数字になった。


「ただし、蝕や魔を使うたびにこの数字は縮む。今後の戦闘次第では、3年を切る可能性もある」


「…………」


「カイト。私はお前に『使うな』とは言わない。使わなければ死ぬ場面がある以上、使うなとは言えん。だが」


 ノアの声が、いつもより低かった。千年の魔導書が、言葉を選んでいる。


「今後、禁忌属性の使用は、より慎重に判断しろ。蝕も含めて。一回の使用が、お前の残り時間を確実に削る。……その判断は、お前にしかできない」


「ああ」


 それだけ答えた。


 左腕の魔印が、袖の下で脈打っていた。鎖骨を超えた数ミリの黒い紋様。小さな変化。だが、その数ミリの中に、時間が削られた証拠がある。


 外套を着直した。襟を高くした。鎖骨の上の魔印が、襟の下に隠れた。まだ隠せる。


 だが、隠せなくなる日は、思ったより近い。


 酒場に降りた。三人が待っていた。リーゼが「遅いわよ」と言い、シアがミルクを差し出し、メルティアが「朝から考え事?」と赤い瞳で笑った。


 何でもない、と答えた。


 嘘だ。ユイと同じ種類の嘘。守るための嘘。


 四人分のジョッキとミルクが並んだテーブル。温かい酒場。いつもの朝。


 この朝が、あと何回あるのか。


 数えないことにした。数えたら、怖くなる。


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