第25話 新たな旅路
秋が深まっていた。
ラスティカの街路樹が赤く色づいて、朝の風が冷たくなった。市場では焼き栗の屋台が出て、甘い匂いが通りを漂っている。冒険者たちは厚手の外套を羽織り始め、酒場では温かいシチューの注文が増えた。
討伐隊との戦闘から二週間が過ぎた。
ラスティカの空気は、少しずつ元に戻りつつあった。完全には戻っていない。俺が通りを歩けば視線は感じるし、囁き声も聞こえる。だが、石を投げる者はいなくなった。
代わりに、頭を下げる者が増えた。
教会の討伐隊を退けたことは、ラスティカの住人たちにとって衝撃だったらしい。教会という巨大な権力に対して、たった四人の冒険者パーティが立ち向かって勝った。それは噂を超えて、ある種の伝説になりかけていた。
「カイト! 昨日の害獣駆除、ありがとね! これ、畑のかぼちゃ!」
農婦がかぼちゃを押しつけてくる。断る間もなく去っていく。両手にかぼちゃを抱えて呆然としていたら、リタが受付の向こうから笑った。
「はいはい、また貢ぎ物? 保管庫に入れといてあげるわ。書類はちゃんと書いてね」
依頼は途切れなかった。討伐、護衛、採取、調査。ロスト・エデンへの依頼は増え続けていて、処理が追いつかないほどだった。
◇
ギルドの応接室。ドルクが机の向こうに座っていた。
「パーティ『ロスト・エデン』。ランク評価をBに昇格とする」
ドルクが通知書を差し出した。禿頭の下の目が笑っている。
「C暫定からの正式B昇格。嘆きの将軍の討伐、審問官マルクスの撃退、教会討伐隊との戦闘。いずれもBランク以上の実績。文句をつける奴はいない」
「ありがとう、ドルク」
「礼を言うのは早い。Bランクになれば、依頼の幅が広がる分だけ危険も増える。辺境だけじゃなく、王都からの依頼も来るようになる。覚悟しておけ」
ドルクが顎髭を撫でた。
「それと、アリアの件。ギルドの登録は受理した。Cランク、風属性の魔法使い。当面はラスティカで個人依頼をこなすらしい」
「世話をかける」
「世話なもんか。腕のいい魔法使いが一人増えるなら、ギルドとしては歓迎だ」
ドルクが立ち上がった。樽のような体が、窓の光を遮った。
「カイト。お前さんがこの街に来た時、『また訳ありか』と思った。今は思う。訳ありが来てくれて良かったとな」
豪快に笑って、応接室を出ていった。
◇
ミルフィ村に行った。
馬車で半日。丘陵地帯を越えて、小さな村。診療所の白い建物。窓辺に干された薬草の匂いが、秋風に乗って漂ってくる。
ユイの部屋に入った。
「お兄ちゃん!」
ユイが布団の上で身を起こした。紫がかった灰色の瞳が輝く。以前より顔色がいい。頬に血の色が戻っている。
「顔色いいな」
「うん。最近、すごく調子いいの。先生も驚いてた」
ユイの隣に、シアが座っていた。銀色の髪。尖った耳。白い法衣。小さな両手をユイの胸の上に置いて、白銀の光を流し込んでいる。
シアの聖属性が、ユイの魔素病に効果を見せ始めていた。
魔素病は体内の過剰な魔素が臓器を侵す病気だ。根治はできない。だが、聖属性の魔力で魔素の活動を鎮めることはできる。シアが定期的に治療を施すことで、ユイの症状は明らかに改善していた。
「シアちゃんの手、あったかいんだよ。光がぽわーって入ってくると、体の中がきれいになる感じ」
「ぽわーって……」
シアが少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「ユイちゃんの体が治療に応えてくれるから、私はただ光を流しているだけです」
「ただ流してるだけじゃないだろ。週に二回、片道半日かけて通ってるじゃないか」
「……それは、私がしたくてしていることですから」
シアの紫の瞳が、穏やかに光った。追放された聖女が、病気の少女を癒している。教会が「不安定要素」と切り捨てた聖属性が、ここでは誰かの命を支えている。
ユイがシアの手を握った。シアがユイの手を握り返した。二人の少女が、窓辺の秋の光の中で微笑んでいる。
その光景を見ていたら、胸の奥が温かくなった。
――これだ。
これのために、悪魔と契約した。これのために、追放を受け入れた。これのために、聖騎士の隊列と戦った。この笑顔のために、全部やった。
間違ってなかった。
帰り際、ユイが「お兄ちゃん」と呼んだ。
「何だ?」
「……手紙、書いたの。読んで」
小さな封筒を差し出された。宛名は「お兄ちゃんへ」。ユイの丸い字。
「今ここで読むか?」
「ダメ。帰ってから読んで」
「分かった」
封筒を外套の内ポケットにしまった。ユイが笑った。笑顔の奥に、何か言いたそうな光が一瞬だけ見えて、消えた。
◇
夜。ラスティカの宿。
屋根の上に登った。秋の夜空。星が近い。辺境の空は王都よりもずっと暗くて、その分だけ星が多い。吐く息が白くなり始めている。もうすぐ冬が来る。
隣に、メルティアがいた。
いつの間にか登ってきていた。赤い瞳が星空を映して、紅い点を二つ灯している。黒い髪が夜風に揺れる。
しばらく、無言だった。
屋根の上で並んで座って、星を見ている。宿の窓から漏れる灯りが、足元を薄く照らしている。どこかの部屋で、リーゼとシアが話している声が微かに聞こえる。笑い声。日常の音。
「ねぇ、カイト」
メルティアの声が、いつもより柔らかかった。からかいの色がない。冗談の色がない。千年の存在が、静かに隣に座っている声。
「後悔してない? 私と契約したこと」
赤い瞳が、星空から俺に向いた。
その瞳の中に、色々なものが見えた。問いかけの奥にある、もっと深い何か。千年を生きた悪魔が、たかが数ヶ月の契約者に聞いている。後悔していないかと。私と出会ったことを悔いていないかと。
メルティアが本当に聞きたいのは、契約の話ではない。
「……後悔?」
星を見た。澄んだ秋の夜空。息を吸った。冷たい空気が肺を満たす。
「するわけないだろ」
言葉が、自然に出た。
「お前のおかげで、ユイを救う力が手に入った。仲間もできた。美女に囲まれて冒険までしてる」
メルティアの唇が微かに動いた。笑おうとしたのか。だが笑わなかった。聞いている。最後まで。
「悪魔に魂を売ったと蔑まれるけど、まぁ、その通りだ」
左腕の魔印が、袖の下で脈打っている。肩まで広がった不可逆の代償。
「でも全く効かない」
メルティアの赤い瞳が、一瞬、揺れた。
揺れ方が違った。今までに見たどの揺れとも違う。驚きでも、計算でも、千年の経験に基づく分析でもない。もっと素朴な、もっと剥き出しの、名前をつけにくい揺れ。
「……ふふ」
メルティアが笑った。
「変な人間」
声が、少しだけ湿っていた。
メルティアは俺から目を逸らして、星空を見上げた。赤い瞳に星が映っている。千年分の記憶を持つ瞳に、ラスティカの秋の星空が映っている。
「変な人間よ、本当に」
もう一度、同じ言葉を呟いた。今度は笑わなかった。ただ、静かに、星を見ていた。
俺も星を見た。
二人で、しばらく黙って星を見ていた。言葉はいらなかった。屋根の上の冷たい空気と、隣にいる温度と、遠い星の光。それだけで十分だった。
◇
部屋に戻って、ユイの手紙を開いた。
丸い字。少し歪んでいる。書く力がまだ完全には戻っていないのだろう。
「お兄ちゃんへ。
シアちゃんが来てくれるようになって、すごく体が楽になりました。ありがとう。シアちゃんはとても優しくて、エルフの耳がかわいいです。
お兄ちゃんが元気そうで安心しました。でも、一つだけ気になることがあります。
お兄ちゃんの左腕、色が変わってた。前に会った時にはなかった、黒いもやもやが見えます。私の目にはそういうのが見えるみたいです。先生にも言ってないけど。
大丈夫?
大丈夫じゃなくても、大丈夫って言うんでしょ。お兄ちゃんはそういう人だから。
でもね、お兄ちゃん。無理しないで。私はもう少しで元気になれる気がするの。だから、それまで、あんまり無茶しないでね。
ユイより」
手紙を読み終えて、膝の上に置いた。
丸い字が、滲んで見えた。目が滲んでいるのか、感覚侵食の残滓か。たぶん、どちらでもない。
ユイは見えていた。魔印を。魔素病の副産物で、魔力の流れが視えるのだ。第八話の訪問の時、ユイが俺の左腕を見つめて表情を曇らせたのは、気のせいではなかった。
「大丈夫じゃなくても、大丈夫って言うんでしょ」。
その通りだ。この兄妹は、互いを守るために嘘をつく。
手紙を丁寧に折り畳んで、外套の内ポケットに戻した。
窓の外を見た。ラスティカの夜空。星が瞬いている。
左腕の魔印が、肩の下で静かに脈打っていた。黒い紋様は、鎖骨の手前で止まっている。だが、止まっているだけだ。次に魔を使えば、また広がる。不可逆の代償は、使うたびに体を侵食していく。
全身の六十パーセントを覆えば、人間としての意識が保てなくなる。
時間は無限ではなかった。
◇
翌朝。ギルドの酒場。
四人分のジョッキがテーブルの上に並んでいた。第六話では三つだった。第十四話で四つになった。今日も四つ。
リーゼがBランク昇格の通知書を開いた。碧い瞳が満足そうに細まる。
「Bランク。半年前は登録すらしていなかったのに」
「成長が早すぎるわよね。普通、Bランクまで二年はかかるのに」
メルティアがジョッキを傾けた。朝から酒を飲んでいる。赤い瞳がいつもの笑みを浮かべている。
「嘆きの将軍、審問官、教会の討伐隊。ここ半年の依頼の質がおかしいだけよ」
「おかしくないわ。実力に見合った評価よ」
リーゼが胸を張った。
シアがジョッキの代わりに温かいミルクを両手で包んでいた。紫の瞳がみんなを見回している。
「……私がこのパーティに入って、まだ一ヶ月くらいなんですよね」
「そうね。長いような短いような」
「短いです。でも」
シアが微笑んだ。銀色の髪が窓からの朝日を受けて光っている。
「ここが自分の居場所だって、もう分かりました」
リーゼが照れたように横を向いた。メルティアが「シアちゃん♪」と手を伸ばした。シアが「わっ」と身を縮めた。
日常だ。追放者たちの、小さな日常。
俺はジョッキを持ち上げた。
「第2部の始まりに乾杯、ってとこだな」
「第2部って何よ」
「さあ。でも、このまま平穏に終わるとは思えないだろ」
「……それは、そうね」
リーゼの碧い瞳が、窓の外を見た。秋の空。高く、青く、どこまでも広い。
ジョッキを掲げた。四つのジョッキがぶつかった。
◇
同日。遥か遠く。
教会本部。大聖堂の最奥。
白い大理石の壁に囲まれた部屋で、一人の男が報告書を読んでいた。
マルクス・ヴァレンティの報告書。そして、討伐隊の失敗報告書。
男は報告書を閉じた。窓から差し込む光が、金色の法衣を照らしている。異端審問局第一席。局長。
「聖と魔の調律、か」
低い声が、大理石の壁に反響した。
「……面白い」
男は立ち上がった。報告書をテーブルの上に置いた。
その手は、マルクスの聖鎖とは比較にならない、静かで、深い聖属性の光を纏っていた。
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