第139話 残された者たち
土の匂いがした。
掘り返されたばかりの、湿った土の匂い。前線基地の外れ、なだらかな丘の上に、小さな墓標が立っていた。石を削っただけの、飾り気のないもの。そこに刻まれているのは、たった三文字の名前だけだった。
レクス。
勇者としての称号も、追放された男という汚名も、悪魔契約者という烙印も、そこにはなかった。ただ、名前だけがあった。それが一番ふさわしいと、俺たちの誰もが思っていた。
弔いは、ささやかなものだった。
英雄譚として語られることはない。魔王を討った勇者としてでも、教会に裁かれた罪人としてでもない。ただ、彼を知る者だけが、この丘に立っていた。
◇
墓標の前に、ダンが立っていた。
勇者の剣を、両手で抱えている。白銀の刀身は鞘に収まったまま、彼の腕の中で静かに光を受けていた。
「……レクスさんに、報告があります」
ダンの声は硬かった。ここに来るまで、何度も言葉を選んできたのだろう。
「この剣で、三人、助けました。撤退が遅れた小隊です。……大したことじゃないかもしれません。でも、俺は」
ダンが言葉に詰まった。それから、絞り出すように続けた。
「守りたいやつが、いたんです。故郷の妹だけじゃなくて。目の前にいる、名前も知らない誰かも。……レクスさんが言ってた意味が、少し、分かった気がします」
ダンが深く頭を下げた。剣を抱えたまま、長い間、そうしていた。
剣を託した男は、もういない。だが、その剣が守る意味は、確かに受け継がれていた。
◇
アリアは、少し離れた場所で立っていた。
亜麻色の髪が、丘を吹く風に揺れている。眼鏡の奥の目は赤く腫れていた。ここに来るまでの数日、彼女がどれだけ泣いたのか、俺は知らない。
だが今、その目は、まっすぐ墓標を見ていた。
「……レクス」
風の音に混じるくらいの小さな声で、アリアが口を開いた。
「あんた、最後は、ちゃんと勇者だったよ」
その声は震えていた。だが、途中で崩れることはなかった。
「昔から無茶ばっかりして、私が止めても聞かなくて。……勇者になってからは、もっとひどくなって。パーティのみんなを見下して、カイトさんを追放して。……最低だったよ、あんた」
アリアが一度、息を吸った。
「でも。……最後の最後で、あんたは、誰かを守って死んだ。剣も握れないくせに。……ばかみたい」
風が、丘を渡っていった。
「……それでも、私、あんたのこと、誇りに思うから」
アリアの頬を、涙が一筋伝った。だが彼女は、それを拭わなかった。ただ、まっすぐに立って、幼馴染の墓標を見つめていた。
俺は、その横顔を見ていた。悼むことと、前を向くこと。その両方を、彼女は同時にやろうとしていた。
◇
弔いが終わり、丘を下りる途中で、俺は自分の左腕を見た。
袖をまくった。そこには、何もなかった。
黒い紋様も、脈打つ結び目も、45%で止まった時計も。ただの腕が、そこにあるだけだった。あの日、悪魔と契約してから、ずっと俺の一部だった呪いが、跡形もなく消えていた。
痛みもない。焼けるような感覚も、ない。
半年以上、俺の体を蝕み続けたものが、もうどこにもなかった。
だが。
丘を吹く風が、草の匂いを運んできた。その瞬間、視界の隅で、匂いが淡い緑色に見えた。ほんの一瞬。すぐに消える、微かな混線。
感覚侵食の名残だった。魔印は消えても、これだけは残った。おそらく、この先もずっと。時折こうして、匂いが色に見えたり、音に手触りを感じたりするのだろう。完全に元通りには、ならなかった。
俺は、まくった袖を、ゆっくり下ろした。
傷は残る。それでいい。失ったものも、残ったものも、全部、俺の一部だ。
◇
「……何を見てるの?」
隣を歩いていたメルティアが、赤い瞳で俺を覗き込んだ。
「腕。……もう、何もないなって」
「あら。寂しい?」
「まさか」
俺が答えると、メルティアは小さく笑った。
彼女の体は、もう薄れていない。輪郭は確かで、足取りもしっかりしている。契約は、俺の中に残ったままだった。断たれもせず、解除もされず。ただ、俺の魂と共に在ることを許された、一つの力として。
「不思議よね」
メルティアが、丘の下に広がる草原を見ながら言った。
「契約は、そのままなの。あなたと私を繋いでる、あの糸。……なのに、もう、あなたを蝕まない。穢れてもいない。……千二百年生きてきて、こんな契約は、初めて見たわ」
その声に、♪はなかった。だが、以前のような軽さの裏の重さも、もうなかった。
「メルティア」
「なに?」
「ありがとな」
メルティアが、一瞬、目を丸くした。それから、ふいと顔を背けた。
「……何よ、急に。……調子が狂うわね」
赤い瞳の縁が、わずかに赤くなっていた。
◇
ラスティカに戻ると、日常が待っていた。
ギルドの依頼。買い出し。宿の掃除。ユイの体調管理。リーゼのリハビリ。シアの調和の練習。派手なことは何もない、ただの日々。
その、ただの日々が、いつの間にかこんなにも重いものになっていた。
誰かが欠けた食卓。レクスの分の椅子がないことに、誰も触れない。触れないことで、みんなが彼のことを考えていた。
そんな午後だった。
アリアが、宿の窓際で、ふいに顔を上げた。風読みの姿勢。何かを、受け取っている。
「……カイトさん」
アリアが振り返った。その表情に、緊張と、どこか戸惑うような色があった。
「王都から、報せです。……ヴィクトルと、セドリックのこと」
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