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第140話 今を生きる(最終話)

 報せは、三つあった。

 アリアが読み上げる声を、俺たちは宿の食堂で聞いていた。窓から差す午後の光が、テーブルに長い影を落としている。

「一つ目。ヴィクトル・ルミエールが、異端審問局長の座を退きました」

 その名前に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。

「正式な処分ではなく、本人の申し出だそうです。……今は、王都の外れの教会で、静かに暮らしているとか」

 五十年信じたものを失った男が、これからどう生きるのか。俺には分からない。だが、あの慟哭を聞いた後では、罰を望む気持ちにはなれなかった。

「セドリックが、そばにいるみたいです」

 読み上げる声に、わずかな熱がこもった。

「毎日、通っているそうですよ。……それと、教会の内側で、少しずつ声を上げ始めているって。『浄化だけが救いなのか』って。若い聖騎士たちの間で、その問いが広がりつつあるらしくて」

 変わるには時間がかかるだろう。何十年もかかるかもしれない。だが、あの若者が扉を叩き始めた。それだけで、十分だと思えた。

 ◇

「二つ目です」

 アリアが顔を上げ、リーゼの方をまっすぐ見た。

「エリシアさんからの報せ。……シュタイン家の裁判記録が、正式に再調査されることになりました」

 リーゼの碧い瞳が、大きく見開かれた。

「聖剣の吸収機能の実在が、王家の調査団によって確認されたそうです。抹消された記録の復元も始まっていて、……お父様の冤罪は、覆される見込みだと」

 誰も、何も言わなかった。長い沈黙が、午後の光の中に降りていた。

 リーゼは、しばらく身動きしなかった。それから、ゆっくりと、両手で顔を覆った。声は漏れなかった。ただ、その肩が小さく震えていた。

 冤罪を着せられ、処刑された父。真実を隠すために切り捨てられた男。その名誉が、十年以上の時を経て、ようやく戻ろうとしていた。

「……父さん」

 顔を覆ったまま、リーゼが呟いた。

「……間に合ったよ」

 俺は何も言わず、その隣に座っていた。かける言葉は必要なかった。彼女がずっと背負ってきた重荷が、今、静かに下ろされようとしていた。

 ◇

「リーゼさん、腕、上げてみてください」

 数日後の朝、シアが調和の光を灯しながら言った。

 リーゼが右腕をゆっくり持ち上げる。肩の高さで止まった。そこから先は、まだ上がらない。

「……ここまでね」

「先週より、三センチ上がってます」

 シアが真剣な顔で言った。この少女は、こういう小さな数字を絶対に見逃さない。

「魔力の総量も、少しずつですけど戻ってます。……ただ、正直に言います。元通りには、たぶん、なりません。聖剣に持っていかれた分は、どうしても」

「知ってるわ」

 リーゼが、あっさりと答えた。碧い瞳に、悲壮なものはなかった。

「完全じゃない。……でも、生きていける。剣も、前ほどじゃないけど握れる。それで十分よ」

 完全な回復ではない。だが、生きていける。俺の腕の名残と同じだった。失ったものを抱えたまま、それでも続いていく日々。

 ◇

 その日の夕方、ユイが俺の部屋に来た。

 紫がかった灰色の瞳が、まっすぐ俺を見上げている。手には、シアと一緒に作ったという薬草茶の器を持っていた。

「お兄ちゃん。私、決めたことがあるの」

「なんだ」

「私、これからも魔素病と付き合っていくと思う」

 その声は、以前とは比べものにならないほど落ち着いていた。

「魔素を変換する体質は、たぶん一生このまま。体調が悪い日も、あると思う。……でもね、もう隠さない。しんどい時はしんどいって言う。無理な時は無理って言う」

 ユイが器を俺に差し出しながら、まっすぐ目を合わせてきた。

「お兄ちゃんも、そうして」

 その言葉に、俺は動きを止めた。

「お兄ちゃん、いつも一人で抱え込むでしょ。魔印のことも、ずっと黙ってた。……もう、やめて。私、子供じゃないよ」

 紫がかった灰色の瞳が、少しだけ潤んでいた。

「今度は、私がお兄ちゃんを守る番だからね」

 守られるだけだった妹が、こんな顔をするようになった。俺は器を受け取って、一口飲んだ。薬草の苦みの奥に、蜂蜜の甘さがあった。

「……ああ。頼りにしてる」

 ユイが、嬉しそうに笑った。

 ◇

 夜、宿の裏手で、メルティアが月を見上げていた。

 赤い瞳が、夜空を映している。俺が隣に立つと、彼女は視線を上げたまま口を開いた。

「ねえ、カイト。私、決めたことがあるの」

 今日は、みんな何かを決める日らしい。

「私、これからは人間として生きるわ」

 メルティアが、こちらを向いた。

「千二百年、後悔を抱えて生きてきた。彼を救えなかったこと。守れなかったこと。……ずっと、そのために生きてる気がしてた」

 赤い瞳に、夜の光が揺れていた。

「でも、もういいの。今度は間に合った。あなたを死なせなかった。……だから私は、これからは、ただのメルティアとして生きるわ♪」

 最後に、♪がついた。

 だがその♪は、もう何も隠していなかった。軽さの裏に張り付いていた重さが、そこにはなかった。ただ、機嫌のいい女がそう言った、それだけの音だった。

「いいと思う」

 俺が答えると、メルティアは満足そうに笑った。

 ◇

「ねえ、カイトさん。前から聞きたかったんですけど」

 翌朝、朝食の席で、シアがふいに顔を上げた。

「魔印は消えましたよね。……でも、あなたの魂は、結局どうなったんですか。悪魔契約は、まだ残ってるんですよね。……死んだら、悪魔界に堕ちるんですか」

 スープをすする音が止まり、場が静かになった。

 ヴィクトルが五十年をかけて答えを出そうとした問い。教会が絶対の真実として掲げてきた問い。それが今、朝食のテーブルに、あまりに素朴な形で置かれた。

 俺はパンをちぎる手を止めて、少し考えた。

「分からない」

 誤魔化す理由もなかったから、正直にそう答えた。

「魂の行き先なんて、誰にも分からない。堕ちるのかもしれないし、堕ちないのかもしれない。……確かめた人間は、一人もいないんだから」

 シアが、不安そうな顔をした。俺は続けた。

「でも、関係ない」

 窓の外で、朝の光が街を照らしていた。市場の呼び声が遠くから聞こえてくる。パンの焼ける匂いがして、その匂いが一瞬、淡い金色に見えた。感覚侵食の名残。もう、驚きもしない。

「大事なのは、今をどう生きるかだ。死後のことは、その時になったら考える。……今は、生きてる。仲間がいる。妹が笑ってる。それで十分だろ」

 誰も、何も言わなかった。

 やがて、ユイが小さく笑った。それにつられて、シアが笑い、リーゼが息を吐き、メルティアが肩をすくめた。それで、話は終わりだった。

 ◇

 その日の午後、俺たちは冒険者ギルドに向かった。

 依頼掲示板に、新しい紙が貼り出されている。北の山道に冥渦の兆候。討伐依頼、危険度B。世界は、まだ完全には平和じゃない。魔素は湧き続けるし、困っている人間もいなくならない。

 ギルドの扉の前で、俺は一度立ち止まった。

 左腕を見る。袖の下に、もう紋様はない。脈打つ感覚も、残り時間の数字も、そこにはなかった。あの夜、星空の下をひとりで歩いていた男には、あと十日という区切りしかなかった。今の俺には、区切られた時間はない。

 振り返る。

 リーゼがいる。ユイがいる。シアがいる。メルティアがいる。アリアもいる。そして、ここにはいないレクスのことを、全員が覚えている。

 失った楽園。ロスト・エデン。

 取り戻せなかったものを、名前にして背負ったパーティ。魔印も、レクスも、失った時間も、二度と戻らない。それでも俺たちは、ここに立っている。

「準備、いいか」

 俺が言うと、全員が頷いた。

 あの日、俺は勇者パーティの扉から、追い出された。今日は、自分の仲間と一緒に、自分の意志で、この扉を開ける。

 俺は扉に手をかけた。

「さあ、行くか」

 失った楽園の名を背負って、俺たちは、今日も今を生きる。


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