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第138話 浄める者の敗北

 大聖堂は、静かだった。

 金色の光は、もう降っていない。聖域は、いつの間にか消えていた。焼けた白檀の香が、余韻のように残っている。ステンドグラス越しの色のついた光だけが、静かに床に落ちている。

 俺は、レクスの体の傍らに、膝をついていた。仲間たちも、みな、動かなかった。ユイもシアもリーゼもメルティアも、それぞれの場所でこの静けさを受け止めている。

 その静寂の中で、ただ一人。

 祭壇の前に、ヴィクトルが、立ち尽くしていた。

 ◇

 金色の法衣は、もう、輝いていなかった。

 澄んだ目は、焦点を失っていた。ヴィクトル・ルミエール。異端審問局長。教会の権威。俺たちを、この場所へ呼び寄せた男。その男が今、どこも見ていない目で俺の左腕を見ていた。

 紋様は、もう、消えかけている。

 浄化ではなく、共存によって。排除ではなく、受容によって。ヴィクトルが「不可能」と信じたやり方で、穢れは、この世から消えていた。

「……なぜだ」

 ヴィクトルの声が、静かに漏れた。

 これまでの諭す響きも、追い詰められた叫びも、そこにはなかった。ただ、道を見失った者の掠れた問いが、大聖堂の静寂に落ちていった。

「なぜ……穢れを、祓わずに、救えた」

 その声が、震えていた。

「私は妹を救うために、全てを正規の方法で尽くしたのに……。それでも、あの子は、死んだのに」

 ◇

 俺はゆっくり立ち上がり、レクスの傍らを離れて、ヴィクトルの前へと歩いた。俺の腕から消えかけた紋様を、ヴィクトルは、まだ見つめていた。答えを、求めるように。あるいは、答えを、恐れるように。

「あんたは、間違ってない」

 静かな声で、俺は告げた。ヴィクトルの目が、初めて焦点を結んで、俺を見た。信じられない、という顔で。

「あんたなりに、妹を救おうとした。……正しい方法で。魂を守るために。それは、あんたの、選んだ道だ。俺には、責める資格はない」

 俺は、自分の左腕を見た。薄れゆく紋様。もう、痛みも暴走もない、その紋様を。

「でも、救い方は、一つじゃなかったんだ」

 薄れゆく紋様から目を上げて、俺はヴィクトルを見返した。

「あんたは、排除を選んだ。俺は、共存を選んだ。……どっちも、救いたかった。あんたは、妹の魂を。俺は、妹の命を。……道が違っただけで、想いは、同じだったはずだ」

 ◇

 ヴィクトルは動かなかった。いや、動けなかった。俺の言葉が、この五十年間決して開かなかった扉を、静かに叩いていた。

「……救えた……のか」

 ヴィクトルの唇が震えた。

「私が、闇の手段を使っていれば。……穢れた力を、拒まなければ。……あの子は……生きられた、のか」

 その問いは、俺に向けられたものでは、なかった。誰にも向けられていない。ただ、五十年間口にすることを許されなかった問いが、今、初めて外へとこぼれ落ちていた。

 ヴィクトルの、金色の法衣を纏った膝が、崩れた。

 澄んだ目から、何かが、こぼれ落ちた。それが涙だと気づくのに、数秒かかった。この男が、涙を流すところなど、想像したこともなかったから。

「……妹を、救えたのか」

 その一言が、大聖堂の高い天井に、反響した。

「私は……妹を……救えたのに、殺したのか」

 ◇

 慟哭が、大聖堂に、響いた。

 穏やかな仮面が、剥がれ落ちていた。異端審問局長でもなく、教会の権威でもなく、五十年間「後悔していない」と繰り返してきた男でもなく。ただ、妹を失った一人の兄の、慟哭だった。

 俺は動けなかった。噛みしめた奥歯に、鉄の味が滲んだ。

 ヴィクトルを責める言葉も、慰める言葉も、俺は持っていなかった。この男が五十年間抱え続けたものの重さに、俺の言葉は届く資格がなかった。

 その、崩れ落ちたヴィクトルの傍らに。

 一人の若者が、静かに、歩み寄っていた。

 セドリックだった。金髪の若い聖騎士が、青い瞳に、深い哀しみを湛えて。師の背中に、そっと、手を置いた。何も言わず、ただ、そこに寄り添って。

 教会の「浄化」一辺倒の絶対性が、崩れた瞬間だった。だが、その崩壊の中に、確かに次の何かが芽吹こうとしていた。若い聖騎士の手のひらから、静かに。

 ◇

 俺は目を伏せた。この場所に、これ以上俺たちが留まる意味はなかった。ヴィクトルには、彼自身の時間が必要だった。セドリックが、そこにいる。それで、十分だった。

 仲間たちの方を振り返る。メルティアが、赤い瞳で、俺を見ていた。守られた命の重さを、その目に湛えて。ユイもシアもリーゼも、それぞれにこの幕切れを噛みしめていた。

 そして、レクスの体が床に静かに横たわっていた。

「……連れて、帰ろう」

 俺は掠れた声で、そう告げた。

 誰も、答えなかった。だが、みな、頷いた。レクスの体を、そっと、抱え上げる。この男を、大聖堂に置いてはいけなかった。彼が守った俺たちの手で、彼を、送るべきだった。

 俺たちは、大聖堂を、後にした。

 背後で、ヴィクトルの慟哭がまだ続いていた。セドリックが、静かに、寄り添っていた。

 外に出ると、王都の空が、広がっていた。

 空は、青かった。俺たちが大聖堂に入る前と、変わらない、澄んだ青。何一つ、変わっていないように見える、いつもの空。

 でも、俺の腕にはもう紋様はなかった。

 メルティアが、隣を、歩いていた。ユイが、俺の手を、握っていた。ただ、俺の腕の中には、動かないレクスがいた。

 勝利と、喪失。

 そのどちらもを抱えて、俺たちは、大聖堂を後にした。長い、長い戦いの、その幕引きだった。


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