第137話 二人の追放者、その結末
「──成立、しました……!」
シアの声が大聖堂に響いた。
その瞬間、俺の左腕の紋様が変わった。
これまで暴れていた黒い糸が、静かにほどけていく。聖と魔が対立をやめる。俺の魂と悪魔契約が、初めて同じ場所に在ることを許し合う。相容れなかった二つが一つの力の表裏として、共にあることを。
紋様は穢れではなくなっていた。
ただの、俺の一部として、そこにあった。
そして──静かに、薄れ始めた。
◇
45%で止まっていた黒い紋様が色を失っていく。
暴走の根が消えたから。対立が終わったから。歪みが、なくなったから。それだけの理由で、紋様は俺の腕から少しずつ消えていった。
メルティアの体が光を取り戻していた。
薄れかけていた輪郭が確かなものに戻っていく。契約は、解除されなかった。断たれもしなかった。ただ、俺の魂と共に在ることを、許された。それだけで、メルティアは消えずに済んだ。
「……守れたわ」
メルティアの声が、震えていた。
「守れた……! 今度は、間に合った……!」
千二百年抱えてきた後悔が、その一言にこもっていた。
◇
だが、その、勝利の光景の中で。
俺の前に、レクスがまだ立っていた。
両腕を広げたまま。俺を、庇い続けたまま。金色の光が引いた後の大聖堂で、レクスは、まだそこにいた。
「レクス……!」
俺は蝕を静かに解いた。共存の術式は、もう、俺一人で保てる。魂と契約が、自然に馴染み合っている。
俺が触れる前に、レクスの体がゆっくりと傾いだ。俺は駆け寄って、崩れかけたその体を抱きとめた。
両腕は、灰色ではなかった。
いや──もう、灰色ですら、なかった。ぼろぼろと、崩れかけている。契約解除で得た、数年の猶予。それが、この一瞬で、すべて、焼かれていた。
◇
「……よう、カイト」
レクスの声が掠れて、俺の耳に届いた。
目はまだ開いていた。赤黒さの薄れた、少しだけ人間の色が戻った、あの目で。
「……調和、成功したみたいだな。……お前、腕、綺麗になってきてるぞ」
レクスが俺の左腕に目をやった。薄れゆく紋様を、見つめた。それから、少しだけ、笑った。
「……よかった」
俺は、返す言葉を持たなかった。何を、言えばよかったのか、分からなかった。ただ、レクスの体を抱きとめる腕に、力を込めた。
「……なあ、カイト」
レクスが、続けた。
「お前が、俺を、殺さなかった理由。……俺、やっと、分かった気がするんだ」
俺は、レクスを見た。噴水広場で、空っぽに笑っていた男。天幕で、澄んだ笑みを見せた男。その男が今、俺の腕の中で最後の言葉を探していた。
「殺す理由が、なかったんだよな」
レクスの声は、静かだった。
「俺も、お前も。……最初から、敵じゃ、なかったんだ。……追放したり、追放されたり。斬り合いかけたり。……ぜんぶ、間違いから始まったけど。……最初から、敵なんかじゃなかった」
その言葉が、大聖堂の静寂に落ちていった。前線基地の天幕で、俺がレクスに告げた答え。その本当の意味が、今、レクス自身の口から返ってきていた。
◇
「……いい人生、だった」
レクスの声が、遠くなりかけていた。
「勇者、だった頃は……何も、分かってなかった。追放されて。……全部、失って。命まで、悪魔に売って。……それで、やっと、分かったんだ」
崩れかけた腕で、レクスが俺の袖を掴もうとした。うまく掴めなかった。だが、指先が俺の袖に、確かに触れた。
「守るって、意味を。……お前に、会って。……知れた」
レクスの目が、俺を、見た。赤黒さの薄れた瞳の奥に、澄んだ光が、宿っていた。
「……ありがとな、カイト。……お前に、追放されて、よかった」
俺は答えられなかった。返す言葉が、喉に詰まった。噛みしめた奥歯に、鉄の味が滲んでいた。
「泣くなよ」
レクスが、また、笑った。
あの、天幕で見せた憑き物の落ちた、澄んだ笑みで。
「……いい、終わり方、だろ。……最後に、誰かを守って、消える。……剣は、握れなかったけど。……盾には、なれた」
その言葉を最後に、レクスの目から光が、静かに抜けていった。
◇
俺の腕の中で、レクスの体が、軽くなっていく。
崩れた腕。灰色ですらなくなった、その腕。だが、その顔には、憑き物の落ちた、穏やかな表情があった。
穢れた悪魔契約者としてでは、なかった。
契約から解放された、一人の人間として。
かつて勇者と呼ばれた男が、最後に誰かを守って、満ち足りて、この世を去った。それが、レクスという男の結末だった。
大聖堂の高い天井から、ステンドグラス越しの光が静かに降り注いでいる。俺の腕の中に、もうレクスの息はなかった。だが、その顔は、笑っていた。
俺は、しばらく、動けなかった。
薄れゆく左腕の紋様を、腕の中の動かなくなった仲間を、ただ見ていた。守れなかった命の重さと、守り抜いた命の重さが、同じ胸の中で、混ざり合っていた。
視界の隅で、香の匂いがふっと赤い色に見えた気がした。感覚侵食の名残だった。魔印が消えても、この感覚だけは完全には消えないのだと、なんとなく分かった。それでいい、と思った。全部、俺の一部だ。
俺はゆっくりと、レクスの体を床に横たえた。
その顔に、そっと手のひらを当てた。憑き物の落ちた澄んだ笑みが、そこに残っていた。
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