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第136話 庇う者

「妹は──救われた」

 ヴィクトルの声が、大聖堂を震わせた。

 もう、諭す響きはなかった。信仰の絶対性を保つための余裕もない。ただ、追い詰められた者だけが持つ、剥き出しの叫びだった。

「あの子は、清らかな魂のまま、天に召された……! それを証明するために……穢れは、祓わねばならない……!」

 ヴィクトルの両手から、荒々しい光が噴き出した。

 これまでの「否定」の聖域とは違う。精密に穢れだけを選んで祓う、あの力ではない。ただ目に映るすべてを、無差別に薙ぎ払おうとする破壊の光だった。

「浄化ではない……! 出力が、暴発してます……!」

 シアが叫んだ。金色の光が、大聖堂の空間そのものを歪ませていく。柱が軋み、ステンドグラスに罅が走る。焼けた白檀の香が、破壊の熱にあおられて、鼻の奥を焦がした。もはや浄化ですらない、ただの破壊が、俺たちのいる祭壇前に津波のように迫っていた。

 ◇

 俺は、動けなかった。

 調和の場を保つのに、すべての集中を使っている。ここで蝕を止めれば、聖と魔の境界が溶けて、俺の魂そのものが壊れる。ユイもシアもメルティアも、それぞれの役割から手を離せない。共存の術式は、一瞬でも途切れれば、そこで終わる。

 だから、動けない。

 破壊の光は、まっすぐ、俺に向かってきていた。

「カイトさん、避けてくださ──!」

 シアの声が、最後まで、届かなかった。

 その瞬間、俺の視界を、灰色が塞いだ。

 ◇

 レクスだった。

 両腕が灰色の、剣を握れない、ただのレクスが。俺と、暴発の光との間に、身を投げ出していた。

 両腕を広げて。

 俺の盾になるように。

「──っ、ぐ、あ……!」

 金色の光が、レクスの体に、直撃した。

 剣を持たない体。守る術のない体。契約解除で得た、あの数年の猶予を持った、ただの人間の体が、破壊の光を真正面から受け止めていた。

 その光景を、俺は動けないまま、ただ見ていた。目を、逸らせなかった。

「レクス……!」

 叫んだ声は、自分でも、掠れて聞こえた。

 ◇

「……っ、よう、カイト」

 背中越しに、レクスの声が聞こえた。

 かすれて、震えていた。だが、いつものレクスの声だった。噴水広場で空っぽに笑っていた男の、そして、天幕で澄んだ笑みを見せた男の、その声だった。

「……間に合った、みたいだな」

 両腕を広げたまま、レクスは俺の前に立ち続けている。灰色の腕が、光の中で震えている。だがその足は、まだ、地面に踏みとどまっていた。

「レクス、お前……!」

 俺は思わず、蝕を緩めかけた。調和を止めて、レクスを支えようとしそうになった。

「動くなよ」

 レクスの声が、それを止めた。

「動くな、カイト」

 その声は、静かだった。頼み込むのでもない。命じるのでもない。ただ、当然のことを、告げていた。

「お前は、それを、完成させろ。……調和ってやつを。魔印を、消せ。メルティアさんを、守れ。それが、お前の、やるべきことだ」

 ◇

 レクスが、俺のいる方には振り向かず、続けた。

 金色の光は、なおもレクスに降り注いでいる。両腕の灰色が、光に灼かれて、崩れ始めていた。契約解除で得た、あの数年の時間が、この一瞬で焼かれていく。数週間で朽ちるはずだった命を、俺たちが繋ぎ止めた、その数年が。

「見届けるって、言っただろ」

 レクスの声は、途切れなかった。むしろ、これまでで一番、はっきりしていた。

「二人の追放者の、片割れとして、最後まで見届ける。……剣は握れないけど、盾くらいには、なれる。そう、言ったよな。……嘘じゃ、なかっただろ」

 王都に発つ前の夜、レクスが天幕で言った言葉が、今、目の前で果たされていた。剣は握れなくても、盾くらいにはなれる、と。あの時は、軽口のように聞こえた言葉が、いま、命を賭けた誓いとして立ち上がっていた。

 俺は、返す言葉を持たなかった。噛みしめた奥歯に、血の味が滲む。

 ただ、蝕を緩めなかった。

 ◇

「カイトさん、術式の完成、あと少しです……!」

 シアの声が、遠くで聞こえた。

「共存の場、安定してます……! 契約と魂の、調和が……もう、成立寸前です……!」

 ユイの声もそれに重なった。

「お兄ちゃんの、魔印の根っこ……消えかけてる……! あと、少し……!」

 あと、少し。

 俺の魂と、悪魔契約が、調和する。魔印が、消える。誰も、消えない。メルティアも、消えない。

 だがそれは、レクスがそこに立ち続けている、その時間の中でしか成立しない。

 背中越しに、レクスの声が、また聞こえた。

「……いいんだ、カイト」

 その声は、もう、震えていなかった。

「俺の役目は、これだ。……お前が、それを、完成させるまでの、盾。それだけ、できりゃ、十分だ」

 レクスの両腕の灰色が、ぼろぼろと、崩れ始めていた。ただの人間の体が、聖域の暴発を、これ以上受け止められるはずがなかった。

 だがそれでも、レクスは動かなかった。俺の前で。俺を守るために。

 金色の光が、なおも、降り注ぎ続けている。

 俺は、調和を、止められなかった。


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