第135話 セドリックの選択
金色の光の只中で、セドリックが一歩を踏み出していた。
白檀の香が、金色の光の中で揺れている。俺たちの誰も、動けなかった。ヴィクトルさえも、目を見開いて、自分の弟子を見ている。予想していなかった、という顔で。
「セドリック……何のつもりです」
ヴィクトルの声には、初めて聞く困惑があった。セドリックは、その問いに答えず、まっすぐ師を見据えていた。青い瞳に、これまでにない強さが宿っている。
◇
「猊下」
セドリックの声が、静かに大聖堂に響いた。
「私は、ずっとあなたの『救い』を信じてきました」
その一言一言が、確かめるように紡がれていく。
「でも……目の前で起きていることは、本当に救いなのですか。あの人たちは、誰も傷つけずに共存しようとしている。……それを祓うことが、本当に正しいのですか」
金色の光の中で、セドリックの視線が、俺の左腕へと向いた。落ち着き始めた黒い紋様へ。誰も犠牲にしない、あの術式へ。
「私には、あれが穢れには見えません」
ヴィクトルの顔から、あらゆる感情が抜け落ちていった。
◇
「セドリック」
ヴィクトルの声が低くなった。これまでの穏やかさとは、明らかに違う響きで。
「お前まで──惑わされたのか」
その一言に、憐れみと、隠しきれない怒りが同居していた。信じていた者に裏切られる、その痛みが。
「あの男の、まやかしの言葉に。あんな共存など、あり得るはずがない。穢れは穢れ。祓われるべきものです。……それが、分からないのですか」
セドリックは目を逸らさなかった。
「惑わされたんじゃ、ありません」
その声は、震えていたが、はっきりしていた。
「初めて、自分の目で見て、自分の頭で考えたんです。……あなたに借りた『救い』じゃなく」
その言葉に、俺は息を呑んだ。口の中に、かすかな鉄の味が滲む。かつて自分がセドリックに投げた問い。その答えが、今、目の前で返ってきていた。
「私には、あの共存が──穢れには、見えません」
◇
ヴィクトルの手が、震えた。
最も忠実だった駒。マルクスのように離反することのない、ただ信じることしか知らなかった弟子。その弟子が今、自分の意志で師に異を唱えている。
「……なぜだ」
ヴィクトルの声から、力が抜けていった。
「私は、お前を信じて育てた。お前だけは……お前だけは、揺らがないと」
「揺らいだわけでは、ありません」
セドリックが、静かに答えた。
「ただ、初めて、目を開いただけです」
その言葉と同時に、セドリックが両手を掲げた。白い法衣の袖が揺れる。彼自身の持つ、聖属性の力。ヴィクトルほど強大ではない。だが確かにそこにある力が、金色の聖域へと向けられていく。
◇
「これは……」
シアの声が、微かに上ずった。
聖域の光が、わずかに揺らいでいた。セドリックの力が、ヴィクトルの出力に、小さな亀裂を入れている。決定的ではない。だが確かに、押し込まれ続けていた調和の場に、一瞬の余白が生まれていた。
「今です……! 少しだけ、聖域の出力が落ちてます……!」
シアが叫んだ。俺は、その一瞬を逃さず、蝕で均衡を立て直した。溶けかけていた境界が、わずかに戻る。崩壊の一歩手前だった魂が、かろうじて持ちこたえる。
「ユイ、シア、今のうちに……!」
「うん……! 契約の核、まだ視えてる……!」
ユイの声に、力が戻った。共存の場が、再び形を取り戻していく。
◇
ヴィクトルは、その光景をただ見ていた。
自分の聖域が、初めて、弟子の力によって乱される。信仰の絶対性が、揺らいでいる。妹の話を聞かれた、あの日から続いていた亀裂が、今、決定的な形を取ろうとしていた。
「……セドリック」
ヴィクトルの声は、もう、これまでの確信を保っていなかった。
「お前は、私の……唯一の……」
その先を、ヴィクトルは言わなかった。あるいは、言えなかった。金色の澄んだ目に、初めて、はっきりとした動揺が浮かんでいた。五十年信じてきたものが、足元から崩れていく音を、聞いているかのように。
だが。
ヴィクトルは、崩れなかった。
「……そうか」
ヴィクトルが、低く呟いた。その声に、何か、決定的な変化があった。諭す優しさでも、憐れみでもない。追い詰められた者だけが持つ、剥き出しの何か。
「なら……もう、手加減はしません」
ヴィクトルの両手に、これまでとは違う、荒々しい光が集まり始めていた。
その予兆に、俺の背筋が凍った。
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