第132話 最悪の天秤
「……カイト」
薄れゆく体で、メルティアが俺の名を呼んだ。
金色の光は、なおも降り注いでいる。焼けた白檀の香が、鼻の奥を刺し続けていた。大聖堂を満たし、俺の魔印を灼き、そして──メルティアの存在を削り続けている。
抱きとめた腕の中で、彼女の輪郭がまた滲む。実体が光に溶けていく。
「契約を──解除させて」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「今、私が消えれば。ヴィクトルの浄化は対象を失う。……あなたの魂から、穢れの源が断たれる。魔印も消える。あなたは──助かるわ」
俺はその言葉を聞いていた。
だが、頭が拒否していた。理解することを。受け入れることを。
「メルティア。お前──」
「聞いて、カイト」
メルティアが俺の言葉を遮った。赤い瞳が、まっすぐ俺を見上げている。薄れゆく体で。それでも、その瞳だけは確かにそこにあった。
「千二百年前、私は……間に合わなかった」
◇
その一言に、俺は息を呑んだ。
「彼が世界を救うために体を壊していくのを。教会に穢れと呼ばれて、浄化されるのを。……私はただ、見ていることしかできなかった」
メルティアの声が震えた。千二百年、抱え続けた後悔。その重さで。
「天使だった私は、教会に逆らえなかった。彼を救えなかった。……その後悔を千二百年、抱えて生きてきた。堕天してでも彼を守ればよかったと。……何度も、何度も思った」
メルティアの手が、俺の腕を掴んだ。薄い感触。だが、確かにそこにある意志。
「今度こそ──間に合わせる」
その赤い瞳に、涙はなかった。ただ、千二百年分の決意だけがあった。
「あなたを死なせない。同じ後悔を、二度としない。……だから、カイト。契約を解除させて。私を消させて」
その言葉は、懇願ではなかった。
メルティアは、笑おうとしていた。いつもの、あの♪をつけた声で。
「……ふふ。悪くない最期でしょう? 千二百年も生きたのよ。……最後に、大切な人を救って消える。……それって、けっこう素敵じゃない♪」
その、♪が。
これまでで、一番、痛かった。
◇
「──ダメだ」
迷いはなかった。考える必要もなかった。答えは、最初から決まっていた。
「お前を消させない」
「カイト」
「聞け、メルティア」
俺は腕の中の、薄れゆく彼女を強く抱きしめた。感触が希薄でも。指の間からこぼれ落ちそうでも。
「俺は前に言ったはずだ。確実に助かる道を選んで、他の全部を捨てるのは──俺じゃない、って」
メルティアの赤い瞳が揺れた。
「お前はあの時、俺を『強欲』だと言った。……ああ、そうだ。俺は強欲だ。全部、欲しい。命も、世界も、仲間も、妹も。……お前も、だ」
俺はメルティアの目を、まっすぐ見た。
「お前を犠牲にして助かる道なんて──俺は選ばない。絶対に」
メルティアが何かを言おうとした。だが、その言葉は出てこなかった。ただ、赤い瞳が大きく揺れた。
◇
だが──状況は、待ってくれなかった。
金色の光が強くなる。ヴィクトルの聖域が、出力を上げている。
「……無駄な抵抗を」
祭壇の前で、ヴィクトルが静かに告げた。その顔に、もう微笑みはない。ただ、憑かれたような確信だけがある。
「その悪魔が消えれば。あなたは救われるのです。……それが正しい道。なぜ、それを拒むのですか」
俺は答えなかった。その代わりに、周りを見た。
リーゼが聖剣を抜いていた。「星断ち」の刀身が、金色の光に晒される。だが──吸収が起きない。
「……効かない!」
リーゼが歯を食いしばった。
「聖域そのものが聖属性の塊よ! 吸収しようにも、規模が違いすぎる……!」
ユイが俺の左腕に手を伸ばした。だが、魔印に触れる寸前で、金色の光に弾かれる。
「痛……っ! お兄ちゃんの魔印に触れない! 光が邪魔してる……!」
シアが調和の光を、必死に灯していた。白銀と金色の間の、あの光を。だが、その光は聖域の圧倒的な出力の前に、押し潰されそうになっている。
「……ダメ、です。力が足りない……! この聖域は、大きすぎる……!」
誰も。
誰も、この聖域を破れない。
◇
俺は腕の中の、メルティアを見た。
輪郭が、また薄れた。時間がない。このままでは、何もしなくても彼女は消える。聖域に削られて。
思考が加速する。
方法は。他の方法は。
結び目を解く──できない。ユイが触れられない。
聖剣で吸収する──できない。規模が違いすぎる。
調和で聖域を防ぐ──できない。出力が足りない。
契約を解除する──それは、メルティアが消えることだ。
すべての道が閉ざされていた。残されたのは、一つだけ。俺が最も選びたくない、その道だけ。噛みしめた奥歯から、血の味が広がっていく。
メルティアの手が、俺の頬に触れた。薄い、光のような感触で。
「……カイト。もう、いいの。……あなたは、生きて」
俺はその手を握りしめた。
諦めない。まだ、何かあるはずだ。全部を守る道が。誰も失わない道が。
だが──金色の光は、容赦なく降り注ぎ続けていた。
時間は、もうほとんど残されていなかった。
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