第131話 浄化の発動
「──黙りなさい」
ヴィクトルの声が、大聖堂を震わせた。
その声は、これまでのどの言葉とも違っていた。穏やかさは消えていた。慈愛も憐憫もない。ただ、剥き出しの拒絶だけがそこにあった。
震えていた指先が握りしめられる。金色の法衣の袖が、大きく揺れた。
「妹は──救われました」
ヴィクトルが絞り出すように言った。誰に言い聞かせているのか。俺たちにか。それとも──自分自身に、か。
「清らかな魂のまま、天に召された。……私の選択は正しかった。あの子を悪魔界から守り抜いた。それが、私の成したことだ」
ヴィクトルの澄んだ目が、俺を射抜いた。
その目に、もう揺らぎはなかった。いや──揺らぎを無理やり押し込めた、狂気にも似た確信が、そこにあった。
「それを証明します」
ヴィクトルが両手を大きく広げた。
「あなたを浄化することで。穢れは祓われるべきものだと。……それが唯一の救いなのだと。……私の五十年が、間違いではなかったと!」
◇
金色の光が、大聖堂に満ちた。
白檀の香が、焼けるように鋭くなる。ヴィクトルを中心に、祭壇から天井へ、柱から床へ。荘厳な空間そのものが、聖属性の光で塗り潰されていく。
聖域。
マルクスの聖鎖が「拘束」なら。ヴィクトルの聖域は──「否定」だった。
その光は俺を縛らなかった。攻撃もしてこなかった。ただ、俺という存在を──「穢れ」として否定し始めた。存在そのものをこの世界から消し去ろうとするように。祓おうとするように。
「……っ、ぐ……!」
左腕が、焼けるように熱い。
黒い紋様が金色の光に灼かれていく。45%で止まっていた魔印が、悲鳴を上げるように脈打つ。存在を否定される。穢れとして。祓われるべきものとして。
◇
だが──異変は、そこで終わらなかった。
「あ……っ」
俺の隣で。
メルティアが膝をついた。
「メルティア!?」
振り返った俺の目に飛び込んできたのは──赤い瞳を大きく見開いて、胸を押さえている彼女の姿だった。
その体が、金色の光の中で──薄れていた。
「……そんな。……この感覚は……」
メルティアの声が震えた。恐怖ではない。もっと深い何かに貫かれたような、震え。
「……千二百年前と、同じ……。あの時、『彼』を浄化した……あの力……!」
ノアの声が、外套の奥から鋭く飛んだ。
「まずい……! ヴィクトルの浄化が、魔印だけを対象にしていない! 契約そのものに──メルティアとの悪魔契約に、干渉している!」
契約に。
俺とメルティアを結ぶ、その契約に。
「浄化は『穢れ』を祓う力だ。カイトの魂の、穢れの源──それは悪魔契約そのもの。……つまり、契約の当事者であるメルティアの存在ごと。祓おうとしている!」
メルティアの体が、また薄れた。
輪郭が金色の光に滲んでいく。千二百年を生きた堕天使の存在が、この聖なる光の中で──消されようとしていた。
◇
「メルティア!」
俺は駆け寄って、その体を支えた。
だが、触れた腕の感触が希薄だった。実体が薄れている。抱きとめても、指の間からこぼれ落ちていくような。
「……大丈夫よ。まだ消えない」
メルティアが無理に微笑んだ。赤い瞳が、俺を見上げる。
「でも……ここに居続ければ。……いずれ、私は──」
その続きを、メルティアは言わなかった。言う必要もなかった。
金色の光は、大聖堂の隅々まで満ちている。逃げ場はない。リーゼが聖剣を抜こうとして──だが聖域の中では、その刃も光に飲まれた。ユイが魔印に触れようとして、金色の光に弾かれた。シアが調和の光を灯すが、聖域の圧倒的な出力に押し潰されそうになっている。
誰も、この聖域を破れない。
そして──俺の左腕の魔印は灼かれ続け。メルティアの存在は薄れ続けている。
◇
「……方法は、ある」
低く響いたノアの声に、俺は振り返った。外套の暗がりが、俺を見ている。
「浄化は『契約』を対象にしている。……なら、その契約が消えれば。浄化は対象を失う」
その言葉の意味を。
俺は理解してしまった。噛みしめた奥歯に、血の味が滲んだ。
「……契約を、今ここで解除すれば」
ノアの声が続く。残酷なほど正確に。
「ヴィクトルの浄化は行き場を失う。カイトの魂から、穢れの源が断たれる。……魔印も消える。カイトは助かる」
だが。
「その代償は──」
「私が、消えるわ」
薄れゆく体で。赤い瞳で俺を見上げて。メルティアは、あまりに静かに告げた。
「契約を解除すれば……私とあなたを繋ぐものが、なくなる。この世界に私が留まる理由が。……私は、消える」
金色の光が降り注ぐ、大聖堂で。
俺の前に、再び──最悪の天秤が突きつけられていた。
俺が生き延びる道は。魔印を消す道は。
メルティアが消えることでしか──ないのだと。
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