表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
130/140

第130話 二つの選択

「あんたは、妹の魂を守った」

 五十年の告白を聞いた後の、大聖堂の静寂の中で、俺は静かに口を開いた。

「穢れた力に頼らなかった。教会の正しいやり方を貫いた。……妹の魂を悪魔界から守り抜いた。あんたの言う通り、それはあんたの選択だ」

 ヴィクトルの澄んだ目が、俺を見ている。何も言わない。

「でも」

 言葉を一度、切ってから。

「妹は──死んだ」

 その言葉が、金色の法衣を纏った男の胸に届いたかどうか。俺には分からなかった。だが、ヴィクトルの指先がわずかに動いたのを、俺は見た。

 ◇

「俺は」

 俺は自分の左腕を見た。かつて黒い紋様が這っていた腕。悪魔契約の証。

「俺は、逆を選んだ」

 俺はヴィクトルを見返した。

「妹の魂より──妹の命を選んだ」

 俺は隣に立つユイを見た。

 紫がかった灰色の瞳が、俺を見上げている。魔素病を患い、死にかけていた妹。俺が悪魔と契約してでも救おうとした、たった一人の家族。

「魂がどうなるかなんて、分からなかった。悪魔界に堕ちるかもしれない。永遠に苦しむかもしれない。……それでも俺は契約した。ユイに生きてほしかったから」

 俺はヴィクトルの目を、まっすぐ見た。

「ユイは──生きてる」

 その言葉が大聖堂に響いた。

「今も、そこに立ってる。息をしてる。笑ってる。……あんたの妹が五十年前に失ったものを。ユイは今も持ってる」

 ◇

 ヴィクトルの穏やかな微笑みが──完全に、消えた。

 柔和だった顔から、表情が失われていく。澄んだ目がユイへと向いた。生きている少女へと。魔素病を患いながら、悪魔契約の力で命を繋いだ、その姿へと。

「……あなたは」

 喉の奥から絞り出すように、ヴィクトルの声が掠れた。

「……あなたは、妹の魂を──危険に晒したのです」

 その声に初めて、感情らしきものが揺れた。

「穢れた力で命を繋いだ。その子の魂はすでに穢れている。……死後、その子は悪魔界に──」

「死後のことなんて、分からない」

 その言葉を、俺は正面から遮った。

「あんたにも、俺にも、誰にも分からない。……確かめた者は一人もいない」

 俺はユイの肩に手を置いた。細い、温かい肩。生きている体温。白檀の香の満ちたこの冷たい聖堂の中で、その温もりだけが確かなものだった。

「でも──今、ユイは生きてる。それが全部だ」

 俺の声が、大聖堂の高い天井に反響した。

「あんたは見えない魂の救いのために──見える妹の命を諦めた。俺は諦めなかった。……ただ、それだけの違いだ」

 ◇

 ヴィクトルは動かなかった。

 立ち尽くしたまま、ユイを見つめたまま。その、生きている少女から目を逸らせないように。

 五十年。

 ヴィクトルは五十年間、信じてきた。妹は救われたと。魂を守ったのだと。自分の選択は正しかったのだと。その信念を支えに、異端審問局長にまで上り詰め、世界中の「穢れ」を浄めながら生きてきた。

 だが。

 今、その目の前に、「生きている妹」が立っている。

 穢れた力で命を繋いだ少女が。笑って、息をして、兄の隣に立っている。ヴィクトルの妹が五十年前に失ったものを──すべて持ったまま。

 ヴィクトルの澄んだ目が揺れた。

 口の中の鉄の味が、ざらりと濃くなる。その揺らぎを、俺は見た。五十年間、決して揺らぐことのなかった信仰の根が。今、初めて震えているのを。

「……私は」

 ヴィクトルの唇が動いた。声にならない声で。

「私は……妹を……」

 ◇

 その時。

 ユイが一歩、前に出た。

 俺が止める間もなく。紫がかった灰色の瞳で、まっすぐヴィクトルを見上げて。

「……おじさんの、妹さんは」

 ユイの澄んだ声が、大聖堂に響いた。

「死ぬ時、笑ってた?」

 その問いに。

 ヴィクトルの体が──硬直した。

「私は生きてる。お兄ちゃんが悪魔と契約してくれたから。……魂が汚れてるって、言われるかもしれない。地獄に行くのかもしれない。……でも、私は今、笑える。お兄ちゃんと一緒にいられる」

 幼い声が、まっすぐ老いた聖職者に届いていく。

「おじさんの妹さんは、綺麗な魂のまま死んだんだよね。……でも、笑えたのかな。……お兄さんと一緒に、いられたのかな」

 その言葉に、ヴィクトルは──何も答えられなかった。

 澄んだ目が大きく見開かれる。五十年前のあの日、妹の最期の顔。それを思い出そうとしているのか。あるいは、思い出したくないのか。

 金色の法衣を纏った、揺るがない男の指先が。

 小刻みに、震えていた。


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ