第130話 二つの選択
「あんたは、妹の魂を守った」
五十年の告白を聞いた後の、大聖堂の静寂の中で、俺は静かに口を開いた。
「穢れた力に頼らなかった。教会の正しいやり方を貫いた。……妹の魂を悪魔界から守り抜いた。あんたの言う通り、それはあんたの選択だ」
ヴィクトルの澄んだ目が、俺を見ている。何も言わない。
「でも」
言葉を一度、切ってから。
「妹は──死んだ」
その言葉が、金色の法衣を纏った男の胸に届いたかどうか。俺には分からなかった。だが、ヴィクトルの指先がわずかに動いたのを、俺は見た。
◇
「俺は」
俺は自分の左腕を見た。かつて黒い紋様が這っていた腕。悪魔契約の証。
「俺は、逆を選んだ」
俺はヴィクトルを見返した。
「妹の魂より──妹の命を選んだ」
俺は隣に立つユイを見た。
紫がかった灰色の瞳が、俺を見上げている。魔素病を患い、死にかけていた妹。俺が悪魔と契約してでも救おうとした、たった一人の家族。
「魂がどうなるかなんて、分からなかった。悪魔界に堕ちるかもしれない。永遠に苦しむかもしれない。……それでも俺は契約した。ユイに生きてほしかったから」
俺はヴィクトルの目を、まっすぐ見た。
「ユイは──生きてる」
その言葉が大聖堂に響いた。
「今も、そこに立ってる。息をしてる。笑ってる。……あんたの妹が五十年前に失ったものを。ユイは今も持ってる」
◇
ヴィクトルの穏やかな微笑みが──完全に、消えた。
柔和だった顔から、表情が失われていく。澄んだ目がユイへと向いた。生きている少女へと。魔素病を患いながら、悪魔契約の力で命を繋いだ、その姿へと。
「……あなたは」
喉の奥から絞り出すように、ヴィクトルの声が掠れた。
「……あなたは、妹の魂を──危険に晒したのです」
その声に初めて、感情らしきものが揺れた。
「穢れた力で命を繋いだ。その子の魂はすでに穢れている。……死後、その子は悪魔界に──」
「死後のことなんて、分からない」
その言葉を、俺は正面から遮った。
「あんたにも、俺にも、誰にも分からない。……確かめた者は一人もいない」
俺はユイの肩に手を置いた。細い、温かい肩。生きている体温。白檀の香の満ちたこの冷たい聖堂の中で、その温もりだけが確かなものだった。
「でも──今、ユイは生きてる。それが全部だ」
俺の声が、大聖堂の高い天井に反響した。
「あんたは見えない魂の救いのために──見える妹の命を諦めた。俺は諦めなかった。……ただ、それだけの違いだ」
◇
ヴィクトルは動かなかった。
立ち尽くしたまま、ユイを見つめたまま。その、生きている少女から目を逸らせないように。
五十年。
ヴィクトルは五十年間、信じてきた。妹は救われたと。魂を守ったのだと。自分の選択は正しかったのだと。その信念を支えに、異端審問局長にまで上り詰め、世界中の「穢れ」を浄めながら生きてきた。
だが。
今、その目の前に、「生きている妹」が立っている。
穢れた力で命を繋いだ少女が。笑って、息をして、兄の隣に立っている。ヴィクトルの妹が五十年前に失ったものを──すべて持ったまま。
ヴィクトルの澄んだ目が揺れた。
口の中の鉄の味が、ざらりと濃くなる。その揺らぎを、俺は見た。五十年間、決して揺らぐことのなかった信仰の根が。今、初めて震えているのを。
「……私は」
ヴィクトルの唇が動いた。声にならない声で。
「私は……妹を……」
◇
その時。
ユイが一歩、前に出た。
俺が止める間もなく。紫がかった灰色の瞳で、まっすぐヴィクトルを見上げて。
「……おじさんの、妹さんは」
ユイの澄んだ声が、大聖堂に響いた。
「死ぬ時、笑ってた?」
その問いに。
ヴィクトルの体が──硬直した。
「私は生きてる。お兄ちゃんが悪魔と契約してくれたから。……魂が汚れてるって、言われるかもしれない。地獄に行くのかもしれない。……でも、私は今、笑える。お兄ちゃんと一緒にいられる」
幼い声が、まっすぐ老いた聖職者に届いていく。
「おじさんの妹さんは、綺麗な魂のまま死んだんだよね。……でも、笑えたのかな。……お兄さんと一緒に、いられたのかな」
その言葉に、ヴィクトルは──何も答えられなかった。
澄んだ目が大きく見開かれる。五十年前のあの日、妹の最期の顔。それを思い出そうとしているのか。あるいは、思い出したくないのか。
金色の法衣を纏った、揺るがない男の指先が。
小刻みに、震えていた。
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