第129話 ヴィクトルの妹
「待て」
持ち上がったヴィクトルの手を、俺の声が止めた。
浄化の光が灯る寸前だった。ヴィクトルの穏やかな目が、俺を見る。「まだ何か」とでも言いたげに。
「一つだけ、聞かせろ」
俺はその澄んだ目を、まっすぐ見返した。
「あんた、なんでそこまで浄化にこだわる」
ヴィクトルの微笑みは動かない。
「見たこともない、死後の救い。誰も確かめたことのない、魂の行き先。……そんなもののために、なんで目の前の命を捨てさせようとする」
一歩前に出て、俺はさらに踏み込んだ。
「なんで、そこまで必死になれる。……教義だからか。使命だからか。……違うだろう」
ヴィクトルの目の奥を覗き込むように、俺は問いを投げた。
「あんたにも、いたんじゃないのか」
その一言に。
「──救えなかった、誰かが」
◇
大聖堂の空気が止まった。
ヴィクトルの穏やかな微笑みが──初めて、崩れた。
持ち上げた手が止まる。澄んだ目がわずかに見開かれる。柔和な顔から、表情が抜け落ちていく。まるで長い間忘れていた場所を、突然指し示されたかのように。
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。白檀の香だけが、その静けさの中をゆっくりと漂っている。ステンドグラスから降り注ぐ光の中で、金色の法衣を纏った男が立ち尽くしている。その、揺るがなかったはずの背中が、ほんの少し小さく見えた。
やがて。
ヴィクトルが静かに口を開いた。
◇
「……妹が、いました」
その声は、これまでとは違っていた。
諭すような慈愛の響きはない。ただ、遠い場所を見ているような、乾いた声だった。
「五十年ほど前のこと。私がまだ若かった頃です。……妹は、魔素病でした」
魔素病。
その言葉に、俺は息を呑んだ。隣でユイが、紫がかった灰色の瞳を大きく見開いている。
「魔素病は当時も、不治の病でした。教会の浄化と祈り。それが唯一の治療法とされていた。……ですが、それでは治らない。誰もが知っていました」
ヴィクトルがゆっくりと視線を上げた。ステンドグラスの光を見上げるように。
「そして当時にも──『闇の手段』がありました」
ヴィクトルの声がわずかに掠れた。
「悪魔契約による魔力。それを使えば、魔素病の魔素を中和できる。……治る可能性が、あった。教会が厳禁とする、穢れた方法です」
俺の心臓が跳ねた。
闇の手段。悪魔契約。……俺が選んだまさにその道を、この男は口にしていた。
◇
「私は、それを拒みました」
ヴィクトルの声に、静かな確信が戻った。だが、その確信はどこか、無理に握りしめられているように聞こえた。
「穢れた力で妹を救えば、どうなるか。……妹の魂が穢れる。死後、悪魔界に堕ちる。永遠の責め苦を受ける。……体は助かっても、魂が地獄に堕ちるのです」
ヴィクトルが俺を見た。その目に初めて──哀しみに似た何かが宿っていた。
「私は、妹の魂を守りたかった。……だから拒んだのです、闇の手段を。そして教会の正規の浄化と祈りに──すべてを賭けました」
毎日、祈った。神にすがった。浄化の儀式を繰り返した。若きヴィクトルが妹のために、できる限りのことを、正しいやり方で尽くしたのだろう。
その結果を。
ヴィクトルは静かに告げた。
「……妹は、死にました」
◇
大聖堂に、その言葉が落ちた。
口の中の鉄の味が、急に濃くなった。誰も動かなかった。リーゼも。メルティアも。レクスも。ユイも。ただ、その老いた聖職者の言葉を聞いていた。
「教会の浄化では──魔素病は治らなかった。当然です。魔素病は、魔素の病。聖属性の浄化では届かない。……分かっていたはずなのに、私はそれに賭けたのです」
ヴィクトルの澄んだ目が、遠くを見た。五十年の時を越えて。
「妹は、清らかな魂のまま死にました。穢れることなく。……天に召されたのです」
その言葉を口にするヴィクトルの声は。
あまりに静かで。あまりに平坦で。
「後悔は、していません」
平坦な声のまま、ヴィクトルは続けた。
「妹は、救われたのです。……私の選択は、正しかった。魂を守った。それが何より、大切なことだった。……ええ。後悔など、あろうはずがありません」
だが。
その「後悔していない」という言葉を。
ヴィクトルは五十年間──いったい何度、繰り返してきたのだろう。
◇
俺は動けなかった。
目の前の男。異端審問局長、ヴィクトル・ルミエール。俺を浄化しようとする敵。教会の権威。揺るがない信仰の化身。
その男が五十年前──俺とまったく同じ場所に立っていた。
魔素病の妹。目の前で死んでいく、たった一人の家族。そして、差し出された「穢れた手段」。
俺は、その手を取った。
ヴィクトルは──取らなかった。
同じ状況。同じ絶望。だが、選んだ道は正反対だった。そしてその結果も──あまりに、残酷なほど正反対だった。
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