表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
129/140

第129話 ヴィクトルの妹

「待て」

 持ち上がったヴィクトルの手を、俺の声が止めた。

 浄化の光が灯る寸前だった。ヴィクトルの穏やかな目が、俺を見る。「まだ何か」とでも言いたげに。

「一つだけ、聞かせろ」

 俺はその澄んだ目を、まっすぐ見返した。

「あんた、なんでそこまで浄化にこだわる」

 ヴィクトルの微笑みは動かない。

「見たこともない、死後の救い。誰も確かめたことのない、魂の行き先。……そんなもののために、なんで目の前の命を捨てさせようとする」

 一歩前に出て、俺はさらに踏み込んだ。

「なんで、そこまで必死になれる。……教義だからか。使命だからか。……違うだろう」

 ヴィクトルの目の奥を覗き込むように、俺は問いを投げた。

「あんたにも、いたんじゃないのか」

 その一言に。

「──救えなかった、誰かが」

 ◇

 大聖堂の空気が止まった。

 ヴィクトルの穏やかな微笑みが──初めて、崩れた。

 持ち上げた手が止まる。澄んだ目がわずかに見開かれる。柔和な顔から、表情が抜け落ちていく。まるで長い間忘れていた場所を、突然指し示されたかのように。

 沈黙が落ちた。

 長い、長い沈黙だった。白檀の香だけが、その静けさの中をゆっくりと漂っている。ステンドグラスから降り注ぐ光の中で、金色の法衣を纏った男が立ち尽くしている。その、揺るがなかったはずの背中が、ほんの少し小さく見えた。

 やがて。

 ヴィクトルが静かに口を開いた。

 ◇

「……妹が、いました」

 その声は、これまでとは違っていた。

 諭すような慈愛の響きはない。ただ、遠い場所を見ているような、乾いた声だった。

「五十年ほど前のこと。私がまだ若かった頃です。……妹は、魔素病でした」

 魔素病。

 その言葉に、俺は息を呑んだ。隣でユイが、紫がかった灰色の瞳を大きく見開いている。

「魔素病は当時も、不治の病でした。教会の浄化と祈り。それが唯一の治療法とされていた。……ですが、それでは治らない。誰もが知っていました」

 ヴィクトルがゆっくりと視線を上げた。ステンドグラスの光を見上げるように。

「そして当時にも──『闇の手段』がありました」

 ヴィクトルの声がわずかに掠れた。

「悪魔契約による魔力。それを使えば、魔素病の魔素を中和できる。……治る可能性が、あった。教会が厳禁とする、穢れた方法です」

 俺の心臓が跳ねた。

 闇の手段。悪魔契約。……俺が選んだまさにその道を、この男は口にしていた。

 ◇

「私は、それを拒みました」

 ヴィクトルの声に、静かな確信が戻った。だが、その確信はどこか、無理に握りしめられているように聞こえた。

「穢れた力で妹を救えば、どうなるか。……妹の魂が穢れる。死後、悪魔界に堕ちる。永遠の責め苦を受ける。……体は助かっても、魂が地獄に堕ちるのです」

 ヴィクトルが俺を見た。その目に初めて──哀しみに似た何かが宿っていた。

「私は、妹の魂を守りたかった。……だから拒んだのです、闇の手段を。そして教会の正規の浄化と祈りに──すべてを賭けました」

 毎日、祈った。神にすがった。浄化の儀式を繰り返した。若きヴィクトルが妹のために、できる限りのことを、正しいやり方で尽くしたのだろう。

 その結果を。

 ヴィクトルは静かに告げた。

「……妹は、死にました」

 ◇

 大聖堂に、その言葉が落ちた。

 口の中の鉄の味が、急に濃くなった。誰も動かなかった。リーゼも。メルティアも。レクスも。ユイも。ただ、その老いた聖職者の言葉を聞いていた。

「教会の浄化では──魔素病は治らなかった。当然です。魔素病は、魔素の病。聖属性の浄化では届かない。……分かっていたはずなのに、私はそれに賭けたのです」

 ヴィクトルの澄んだ目が、遠くを見た。五十年の時を越えて。

「妹は、清らかな魂のまま死にました。穢れることなく。……天に召されたのです」

 その言葉を口にするヴィクトルの声は。

 あまりに静かで。あまりに平坦で。

「後悔は、していません」

 平坦な声のまま、ヴィクトルは続けた。

「妹は、救われたのです。……私の選択は、正しかった。魂を守った。それが何より、大切なことだった。……ええ。後悔など、あろうはずがありません」

 だが。

 その「後悔していない」という言葉を。

 ヴィクトルは五十年間──いったい何度、繰り返してきたのだろう。

 ◇

 俺は動けなかった。

 目の前の男。異端審問局長、ヴィクトル・ルミエール。俺を浄化しようとする敵。教会の権威。揺るがない信仰の化身。

 その男が五十年前──俺とまったく同じ場所に立っていた。

 魔素病の妹。目の前で死んでいく、たった一人の家族。そして、差し出された「穢れた手段」。

 俺は、その手を取った。

 ヴィクトルは──取らなかった。

 同じ状況。同じ絶望。だが、選んだ道は正反対だった。そしてその結果も──あまりに、残酷なほど正反対だった。


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ