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第126話 救いという名の

「断る」

 俺は、即座に、答えた。

 ヴィクトルの、穏やかな微笑みは、崩れなかった。俺の拒絶を、予想していたかのように。むしろ、静かに、頷いてみせた。

「そう、言われるでしょうね。……でも、聞いてください、灰原殿。これは、あなたのための、話なのです」

 ヴィクトルが、一歩、祭壇の前から、進み出た。金色の法衣が、ステンドグラスの光を、受けて、鈍く輝く。

「あなたの魂は、悪魔契約によって、深く、穢れている。……このまま、あなたが、死ねば、どうなるか。分かりますか」

 その声は、諭すようだった。子供に、道理を、教えるように。

「あなたの魂は、悪魔界に、堕ちる。そして、永遠の、責め苦を、受けるのです。終わりの、ない苦しみを。……悪魔と、契約した者の、末路です」

 ヴィクトルの、穏やかな目が、俺を、見つめた。

「それを、防ぐ、唯一の方法が──浄化なのです。生きている、今のうちに、その穢れを、祓う。そうすれば、あなたの魂は、救われる。死後の、責め苦から、逃れられる。……これが、救いでなくて、何だと、いうのですか」

 ◇

「浄化すれば」

 俺は、ヴィクトルを、見返した。

「俺は、全属性を、失う。蝕も、聖属性も、全部。……妹を、救う力も、世界を、守る力も、消える。そうだろう」

 ヴィクトルは、静かに、頷いた。

「……ええ。その通りです」

 悪びれる様子は、なかった。当然のことを、認めるように。

「力など、些末なことです」

 金色の法衣の袖を、わずかに揺らして、ヴィクトルが続けた。

「一時の、力。この世での、力。そんなものは、魂の、永遠に比べれば、塵のようなもの。……一時の力のために、永遠の魂を、穢れたままにする。それは、あまりに、愚かなことでは、ありませんか」

 力は、些末。魂が、全て。ヴィクトルの中では、その、価値観が、揺るぎなく、確立されていた。だから、彼は、迷わない。俺の全てを、奪うことに。それを、救いと、信じて。

 俺は、その、穏やかな顔を、見ながら、口を、開いた。

「魂の話なんて──誰にも、分からないだろう」

 ◇

 ヴィクトルの、微笑みが、わずかに、止まった。

「死後に、悪魔界がある、なんて。永遠の、責め苦がある、なんて。……誰が、見たんだ。誰が、確かめたんだ」

 一歩も引かず、俺は言葉を重ねた。

「あんたは、見たことも、ないんだろう。死んで、悪魔界に堕ちた、悪魔契約者を。永遠に、苦しんでる魂を。……誰も、見たことが、ない。誰も、確かめたことが、ない。それは、ただの、教会の、言い伝えだ」

 俺は、自分の左腕を、見た。かつて、黒い紋様が、這っていた腕。ヴィクトルが、「穢れ」と呼ぶもの。

「あんたは、見たことのない、死後の救いのために──今、目の前にある、命を、捨てろと、言ってる。妹を、救った、この力を。世界を、守れる、この力を。……見えないもののために、見えるものを、捨てろと」

 白檀の香が、やけに濃く感じられる大聖堂に、俺の声が、響いた。

「そんなもの、救いでも、何でも、ない」

 ◇

 ヴィクトルは、しばらく、俺を、見つめていた。

 だが、その、穏やかな微笑みは──崩れなかった。むしろ、憐れむように、目を、細めた。まるで、道理の、分からない、子供を、見るように。

「……ああ、なんと、哀れな」

 ヴィクトルが、静かに、呟いた。

「あなたは、信仰を、知らないのですね」

 ヴィクトルの声に、憐憫が、滲んだ。

「信仰とは、見えないものを、信じることです。目に、見えるものだけを、信じるのは──獣と、同じ。人は、見えないものを、信じるからこそ、人なのです。魂の、救いを。死後の、安寧を。……それを、信じられないあなたは、道を、見失っている」

 ヴィクトルが、俺に、手を、差し伸べた。救いを、与えるかのように。

「だから、私が、導くのです。迷える、あなたを。正しい、道へ。……それが、私の、務め。神から、与えられた、使命なのです」

 その手は、穏やかで、慈愛に、満ちていた。だが、その慈愛こそが──最も、恐ろしかった。ヴィクトルは、本気で、俺を、導こうとしている。俺の全てを、奪うことを、慈悲だと、信じて。口の中に、苦い鉄の味が、滲んだ。

 ◇

「……導く、ですって?」

 声が、した。

 リーゼだった。碧い瞳が、鋭く、ヴィクトルを、射抜いている。その声には、抑えた、怒りが、滲んでいた。

「教会は、過去にも、『導いた』わ」

 リーゼが、一歩、前に、出た。傍らの、聖剣の柄に、手を、添えながら。

「シュタイン家の、当主を。……あなたたちの言う、『正しい道』へ、ね」

 ヴィクトルの、穏やかな目が、リーゼへと、向いた。その名を、聞いても、微笑みは、崩れない。だが、リーゼの、次の言葉が、大聖堂の空気を、張り詰めさせた。

「その聖剣に、隠された、真実を。……教会が、握りつぶした、事実を。……ここで、話しても、いいのかしら。ヴィクトル・ルミエール、局長どの」

 リーゼの碧い瞳が、ヴィクトルを、まっすぐ、見据えている。父の、冤罪。聖剣の、真実。教会が、闇に葬った、その事実を──今、この場所で、暴こうと、していた。


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