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第123話 旅立ちの前夜

 王都へ発つ前の夜は、静かだった。

 前線基地の一角に借りた天幕で、俺たちは、それぞれに、最後の準備を進めていた。夜気に混じる、消えかけた篝火の煙の匂い。荷を、まとめる。装備を、確かめる。だが、その手の動きの奥で、みんなが、何かを、胸に抱えているのが、分かった。

 明日、王都へ発つ。ヴィクトルの待つ、大聖堂へ。すべての決着が、そこにある。

 ◇

 ユイが、自分の荷物の脇で、じっと、両手を、見つめていた。

 指先には、まだ、薄い火傷の跡が、残っている。四番目の結び目に、届かなかった、あの手。

「……お兄ちゃん」

 ユイが、紫がかった灰色の瞳を、上げた。

「私、まだ、役目を、果たせてない。四番目の結び目、解けなかった。……ずっと、悔しかった」

 俺は、何も言わず、ユイの言葉を、待った。

「でも、王都で、何が起きても……私にしか、できないことが、あるはず。魔印の中を視られるのは、私だけ。結び目に、触れられるのは、私だけ」

 ユイが、火傷の残る指先を、握りしめた。

「だから、絶対、やる。お兄ちゃんの、黒いの。……全部、ほどく。今度こそ、私が」

 その声に、迷いは、なかった。守られるだけだった妹が、自分の役割を、まっすぐ、見据えていた。俺は、ユイの頭に、そっと、手を置いた。

「……ああ。頼りにしてる」

 ユイが、少しだけ、笑った。

 ◇

 天幕の外で、シアが、調和の光を、灯していた。

 白銀と金色の間の、温かい光。その光を、両手の中で、じっと、見つめている。何かを、確かめるように。あるいは、何かを、探すように。

「……まだ、足りない」

 シアが、独りごとのように、呟いた。俺が近づくと、シアは、紫の瞳を、上げた。

「調和の光は、魔印を刺激しない。結び目の暴走を、抑えられる。……でも、糸4本以上の結び目には、この力だけじゃ、届かない。何かが、足りないの」

 シアが、灯した光を、見つめ直した。

「その『何か』が、まだ、掴めない。調和の、もっと深いところに、答えがある気がするのに。……手が、届かない」

 シアの声に、焦りと、そして、静かな渇望が、あった。もっと先へ。もっと深く。この力の、本当の意味へ。彼女は、まだ、その入口に、立っているだけなのかもしれなかった。

「焦らなくていい」

 俺が言うと、シアは、小さく、首を振った。

「ううん。……時間が、ないから。カイトさんの魔印は、いつまでも、待ってくれない。……だから、掴まなきゃ。王都に着くまでに、少しでも」

 その横顔には、聖女としての、静かな決意が、宿っていた。

 ◇

 メルティアは、天幕の隅で、一人、夜空を、見上げていた。

 赤い瞳が、遠い星を、映している。その横顔に、いつもの♪の、軽やかさは、なかった。

「メルティア」

 俺が声をかけると、メルティアは、赤い瞳を、俺に向けた。

「……王都には、あまり、いい思い出が、ないの」

 その声は、静かだった。

「大聖堂は、教会の、総本山。聖属性が、満ちている場所。悪魔の私には、空気そのものが、刃になる。……それだけじゃ、ないわ」

 メルティアの赤い瞳が、また、夜空へと、戻った。

「千二百年前。私が、まだ、天使だった頃。……あの場所で、教会は、『彼』を、浄化した。私が、守れなかった、あの人を。……あそこは、私にとって、後悔の、始まった場所なの」

 千二百年、メルティアが、抱え続けてきた後悔。世界を救うために体を壊していく男を、守れなかった。教会に、浄化された。その場所へ、今、また、向かおうとしている。

「怖いか」

 俺が問うと、メルティアは、しばらく、黙っていた。それから、静かに、首を振った。

「怖くない、と言えば、嘘になる。……でも、行くわ。あなたのために。今度は──同じ後悔を、繰り返さないために」

 メルティアの赤い瞳が、俺を、見た。その奥に、千二百年分の、重さと、決意が、宿っていた。

 ◇

 夜も更けた頃、リーゼが、聖剣の手入れを、していた。

 「星断ち」の刀身を、布で、丁寧に、拭っている。碧い瞳の光は、まだ弱い。だが、その手つきには、揺るがない意志が、あった。

「無理は、するなよ」

 俺が言うと、リーゼは、手を止めずに、答えた。

「無理じゃ、ないわ。……父の名誉を、回復する。それは、私が、ずっと、望んでたこと」

 リーゼの碧い瞳が、刀身に、映る自分を、見つめた。

「でも、それ以上に……あなたを、守りたい。ヴィクトルが、あなたに、何かしようとするなら。……私は、もう一度、この剣を、握る。代償は、承知の上よ」

 聖剣を握れば、また、魔力を吸われる。父と、同じ道を。それを知りながら、リーゼは、覚悟を、決めていた。俺のために。

 俺は、何も言えなかった。ただ、リーゼの、覚悟の重さを、受け止めるしか、なかった。

 ◇

 全員が、眠りについた後。

 俺は、一人、天幕の外で、夜空を、見上げていた。左腕の、袖をまくる。45%で、止まった、黒い紋様。

 ユイが、シアが、メルティアが、リーゼが。みんなが、それぞれの覚悟を、抱えて、明日、王都へ向かう。俺の、この魔印のために。俺と、共に。

 全員の覚悟を、背負っている。その重さを、俺は、噛みしめた。舌の奥の、鉄の味とともに。

 だからこそ、決めていた。全部を、守りきる。誰も、欠けさせない。メルティアも、レクスも、仲間の、誰一人として。そして、この魔印も、必ず、消す。全部、抱えたまま、その全部を、守り抜く。

 それが、俺の、選んだ道だった。

 夜が明ければ、王都へ発つ。

 止まった時計と、みんなの覚悟を抱えて、物語は――最終の局面へと、動き出そうとしていた。


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