第121話 殺さなかった理由
「お前を殺す理由が、なかったからだ」
静かな天幕の中で、俺の声が、レクスに向かって落ちた。ダンが去った後の、穏やかな空気。レクスの、赤黒い瞳が、俺を、じっと見ている。答えを、待っている。
「勘違いするなよ。お前がやったことを、許したわけじゃない。……俺を、追放した。仲間を、足手まといだと見下した。散々な目に、遭わせた。それは、今でも、許してない」
レクスは、黙って、聞いている。
「でも──それは、殺す理由には、ならない」
言葉を選びながら、俺は続けた。
「許せないことと、殺すべきことは、違う。お前は、俺にとって、許せないやつだった。でも、殺すほどのやつじゃ、なかった。……それだけのことだ」
◇
「それに、な」
俺は、あの日の、噴水の広場を、思い出していた。
「あの時のお前は、もう、罰を受けてた」
レクスの赤黒い瞳が、わずかに、揺れた。
「命を、悪魔に売って。少しずつ、体を、喰われて。何のために生きてるのかも、分からなくなって。……空っぽになって、笑うことしか、できなくなってた。あの時のお前は、生きながら、地獄にいるようなもんだった」
雨上がりの、石畳。空っぽの目で、笑っていた男。何のために命を売ったのか分からない、と、泣いていた男。あの、濡れた石畳に膝をついて、赤黒い剣を引きずっていた姿を、俺は、今でも、はっきりと覚えている。
「俺が、剣で刺すまでもない。……お前は、もう、自分自身を、罰してた。だから、俺が、手を下す必要は、なかったんだ」
天幕の中に、沈黙が、落ちた。
レクスは、長い間、何も、言わなかった。灰色の手を、膝の上で、じっと、見つめている。何かを、噛みしめるように。
やがて、レクスが、口を開いた。
「……そうか」
その声は、掠れていた。
「お前は、俺を……人間として、見てたんだな」
レクスの赤黒い瞳が、俺を、見た。
「穢れた、悪魔契約者じゃなく。罰を受けてる、ただの、一人の人間として。……だから、殺さなかった。俺の、罪も、罰も、ぜんぶ、人間のものとして、見てた」
◇
レクスが、ふと、天幕の天井を、見上げた。
「なあ、カイト。……おかしな話だと、思わないか」
その声に、静かな、問いの色があった。
「教会は、お前を、『穢れ』と呼ぶ。悪魔と契約した、汚れた存在だと。……浄めるべき対象だと。ヴィクトルは、お前を、そう見てる」
レクスの赤黒い瞳が、天井から、俺へと、戻ってきた。
「でも、お前は……俺みたいな、クズを、人間として、扱った。許せないやつだと言いながら、殺す理由がないと言って、見逃した。……なあ、どっちが、正しいんだろうな」
どっちが、正しいのか。
口の中に、かすかな鉄の味が、滲んだ。教会の、「浄化」か。それとも、俺の、「見逃し」か。穢れと断じて祓おうとする者と、罪も罰も人間のものとして見る者。その、どちらが。
俺は、しばらく考えて、それから、答えた。
「正しさなんて、誰かが、勝手に決めるもんだ」
レクスの視線が、まっすぐ俺に向く。その目を受け止めて、俺は続けた。
「教会が決めた『正しさ』に、俺は、従わない。穢れだの、浄化だの……そんなもの、教会が、勝手に、線を引いてるだけだ。……俺は、そんな線に、従うつもりはない」
俺は、自分の左腕を、見た。かつて、黒い紋様が、這っていた腕。悪魔契約の、証。教会が、「穢れ」と呼ぶもの。
「俺は、自分の目で、見て、決める。お前は、許せないやつだった。でも、殺すほどじゃ、なかった。……それは、教会の『正しさ』とは、関係ない。俺が、俺の目で、見て、決めたことだ」
レクスが、しばらく、俺を、見つめていた。
そして、笑った。
◇
それは、これまでの、どの笑みとも、違っていた。
噴水の広場で見せた、空っぽの笑いでも、ない。契約解除の後の、不器用な笑いでも、ない。ただ、穏やかな──憑き物の落ちた、澄んだ笑みだった。
「……そうか」
澄んだ笑みのまま、レクスが呟いた。
「お前に、追放されて……よかったのかもな」
その言葉に、俺は、レクスを、見た。
「あの時は、恨んだ。お前を切り捨てた、自分の判断が、正しいと思ってた。……でも、違ったんだな。切り捨てられたお前のほうが、ずっと、まっすぐで……ずっと、強かった」
レクスの赤黒い瞳が、穏やかに、細まった。
「お前が、本物の、勇者だったんだ。……きっと、最初から」
天幕の中に、穏やかな時間が、流れた。外から流れ込む、土と草の匂い。二人の追放者。かつて、殺し合いかけた、片割れ同士。その間に、長い時間をかけて、和解が、静かに、成立していた。
俺は、何も、言わなかった。ただ、レクスの、澄んだ笑みを、見ていた。それで、十分だった。
だが、その穏やかさは、長くは、続かなかった。
天幕の外から、慌ただしい足音が、近づいてきた。アリアだった。亜麻色の髪を、振り乱している。その顔に、緊張が、走っていた。
「カイト……! 王都から、報せが」
アリアの声が、穏やかな空気を、切り裂いた。
王都。ヴィクトル。盤の向こうの男が、また、動いた。
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