第119話 猶予
誰も、声を出せなかった。
レクスは、目を閉じたまま、寝台に、横たわっている。荒かった息は、静かになっていた。だが、その静けさが、生きている証なのか、それとも──誰にも、判断がつかなかった。
アリアは、握った手を、離さない。灰色の、動かない手を、両手で包んだまま、じっと、レクスの顔を、見つめている。ユイが、祈るように、口を、引き結んでいた。メルティアは、額の汗も拭わず、赤い瞳で、レクスの胸を、見据えている。
天幕の中の、時間が、止まったようだった。
永遠にも思える、数秒。あるいは、数十秒。
その沈黙を、破ったのは──
レクスの、瞼だった。
◇
わずかに、瞼が、震えた。アリアが、鋭く息を呑む。
「レクス……?」
ゆっくりと、レクスの目が、開いていく。
その瞳を見て、俺は、気づいた。色が、違う。
これまで、赤黒く濁っていた、レクスの瞳。その赤黒さが、わずかに、薄れていた。完全な、人間の色ではない。だが、あの、悪魔に喰われかけた濁りが、少しだけ、引いている。人間の色が、ほんの少し、戻っていた。
「……よう」
レクスの声が、掠れて、漏れた。
「……まだ、生きてるみたいだな。俺」
ノアの声が、外套の奥から、静かに響いた。
「契約の印が、上書きされている。下級悪魔との繋がりが……断たれた。寿命の消費が、止まっている。これ以上は、縮まない」
止まった。レクスの、削られ続けていた命が。止まった。舌の奥に張りついていた鉄の味が、ふっと、薄くなった気がした。
メルティアが、長く、息を吐いた。張り詰めていたものが、ようやく、緩んだ音だった。天幕に渦巻いていた饐えた臭いは、いつの間にか消えて、朝の空気の匂いが、戻っていた。
◇
「でも、勘違いは、しないで」
メルティアが、掠れた声で、言った。喜びに水を差すようだが、伝えなければならない、という響きだった。
「失われた寿命は、戻らないの。今まで削られた分は、そのまま。両腕の灰色も、消えない。あなたは……もう、長くは、生きられない」
メルティアの赤い瞳が、レクスを見た。
「でも──『あと数週間で死ぬ』っていう運命は、消えた。この先、数年は、生きられる。ゆっくり、腐っていくんじゃなく。……ちゃんと、生きられるのよ」
数年。
剣を握れなくなった男に、数年の時間。完全な回復ではない。奪われたものは、戻らない。だが、それでも──寝台の上で数週間かけて朽ちるはずだった命が、数年に、伸びた。
レクスは、しばらく、天幕の天井を、見上げていた。それから、ゆっくりと、自分の右手を、視界に、持ち上げた。
灰色の、手。相変わらず、命の色を、失っている。
だが。
その指先が、わずかに、動いた。
「……動く」
掠れた呟きが、レクスの口から漏れる。
「剣は……まだ、握れそうにない。握力なんて、戻っちゃいない。……でも、指が、動く。……昨日までは、指一本、動かなかったのに」
灰色の指が、ぎこちなく、曲がって、伸びた。
その、ささやかな動き。剣を振るには、程遠い。だが、確かに、レクスの意志で、動いていた。
◇
アリアが、泣いていた。
握りしめた手の上に、涙の粒が、ぽたぽたと、落ちていく。声を殺して、肩を震わせて。安堵と、それまで堪えていた恐怖が、一度に、あふれ出したように。
「……よかった。……本当に、よかった……っ」
アリアの、途切れ途切れの声。幼馴染の魂を、自分の声で、繋ぎ止めた少女。その緊張が、今、解けていた。
レクスが、灰色の手を、わずかに動かして、アリアの手を、握り返そうとした。うまくは、握れない。それでも、指先が、アリアの手に、そっと、触れた。
「泣くなよ」
レクスが、不器用に、笑った。
「……まだ、死んでない。せっかく、お前が、繋ぎ止めてくれたんだ。……無駄にはしないさ」
アリアが、涙で濡れた顔を、上げた。何か言おうとして、言葉にならず、ただ、こくこくと、頷いた。
俺は、その光景を、見ていた。二人の追放者の、片割れが、生きる時間を、取り戻した。数年という、限りある時間を。
だが、ふと、思った。この、取り戻した時間を──レクスは、何に、使うのだろう。
剣は、握れない。勇者としては、もう、戦えない。それでも、生きると、決めた男。その数年を、どう生きるのか。
天幕の外で、朝の光が、強くなっていた。前線の、慌ただしい物音が、聞こえてくる。世界は、まだ、戦いの只中にある。
レクスの、取り戻した数年が、静かに、動き始めていた。
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