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第118話 魂の上書き

 赤い光が、レクスの胸に、沈んでいった。

 メルティアの両手から流れ込む、深く濃い悪魔の力。それが、レクスの体の内側へ、少しずつ、潜っていく。目には見えない、魂の刻印。下級悪魔との、契約の印。メルティアは、その印を、探り当てようとしていた。

 レクスの表情が、歪んだ。

「……っ」

 歯を、食いしばっている。額に、汗が滲む。生きたまま、魂を直接触られる痛み。メルティアが警告した通りの、それだった。

「印を、見つけたわ」

 メルティアの声が、低く、張り詰めていた。赤い瞳が、鋭く、一点を見据えている。

「これから、上書きする。……レクス、耐えて。少しでも、気を抜けば、失敗する」

 レクスは、答えられなかった。ただ、荒い息を、繰り返している。返事の代わりに、赤黒い瞳が、一度、強く、瞬いた。分かった、という合図のように。

 ◇

 メルティアの手のひらの赤が、濃くなった。

 レクスの体から、黒い靄が、噴き出し始める。契約の印が、剥がされようとしている。下級悪魔との、繋がりの糸。それを、メルティアの力が、一本ずつ、断ち切っていく。

「ぐ……っ、あ……!」

 レクスの口から、苦痛の呻きが、漏れた。

 黒い靄が、天幕の中に、渦を巻く。焦げたような、饐えた臭い。感覚侵食で、その臭いが、赤黒い染みになって、視界の端に、広がった。魂が剥がされる臭い。命の根が、引き抜かれる臭いだった。口の中の鉄の味が、その臭いと混ざって、喉の奥で、苦く濁った。

 メルティアの額から、汗が、伝い落ちた。

「……固い。この印は、思ったより、深く食い込んでる」

 メルティアの声に、初めて、焦りが滲んだ。

「レクスの魂と、契約の印が……分かちがたく、絡んでる。無理に剥がせば──」

 その言葉の途中で、異変が起きた。

 黒い靄が、急に、激しく暴れ出した。レクスの体が、びくりと、跳ねる。赤黒い瞳が、大きく見開かれ、焦点を失っていく。

「っ……! まずいわ!」

 メルティアの声が、鋭く跳ねた。

「魂が、剥がれかけてる……! 印と一緒に、レクスの魂そのものが、引きずり出されようとしてる……っ!」

 失敗の、兆候。上書きに、レクスの魂が、耐えきれていない。このまま魂が剥がれれば、レクスは、砕けて、消える。即座に。この、天幕の中で。

 ◇

「レクス!」

 叫んだのは、アリアだった。

 亜麻色の髪を振り乱して、アリアが、レクスの手を、両手で、強く握りしめた。灰色の、動かない手を。

「しっかりして! 聞こえてるんでしょ!」

 アリアの声が、天幕に、響き渡った。いつも、言いたいことを飲み込んで、一歩、引いていた少女。その少女が、今、全力で、叫んでいた。

「昔のあんたは、こんなんで、音を上げなかったでしょ! どんなに劣勢でも、最後まで、諦めなかった! それが、あんたの……勇者の、レクスだったでしょ!」

 握りしめた手に、力を込める。まるで、その手を通して、自分の声を、レクスの魂に、届けようとするように。

「戻ってきて、レクス! まだ、あんたのやりたいこと、残ってるでしょ! 王都に、行くんでしょ! 最後まで、見届けるって、言ったでしょ……!」

 アリアの目から、涙が、こぼれた。

「だから……! こんなところで、消えないでよ……!」

 その瞬間。

 焦点を失いかけていた、レクスの赤黒い瞳が──一度、揺れた。

 剥がれかけていた魂が、何かに、引き止められるように。アリアの声に、応えるように。ぎりぎりのところで、踏みとどまった。

 ◇

「……今よ!」

 その一瞬の隙を、メルティアは、逃さなかった。

 赤い光が、一気に、レクスの胸に、流れ込む。剥がれかけた魂を、押し戻しながら、その上に、新しい印を、刻んでいく。下級悪魔との繋がりを断ち、メルティアの力で、魂を、上書きする。

 黒い靄が、少しずつ、薄れていった。

 渦を巻いていた饐えた臭いが、引いていく。天幕の中の、赤黒い染みが、視界から、消えていく。レクスの体の痙攣が、収まっていった。

 やがて、メルティアの手のひらの、赤い光が、ゆっくりと、消えた。

「……終わった」

 メルティアの声は、掠れていた。額の汗を、拭おうともせず、レクスを、見つめている。

 天幕の中が、静まり返った。

 レクスは、目を閉じたまま、動かない。荒かった息は、今は、静かになっている。だが──その静かさが、眠りなのか、それとも。

 アリアが、握った手を、離さないまま、レクスの顔を、覗き込んだ。

「……レクス?」

 返事は、なかった。レクスの瞼は、閉じられたまま。灰色の手は、アリアの手の中で、動かない。

 成功したのか。失敗したのか。

 それは、まだ、誰にも、分からなかった。


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