第117話 レクスの選択
「賭ける」
翌朝、天幕に入った俺たちを、レクスは、その一言で、迎えた。
夜が明けたばかりの、薄い光が、天幕の隙間から差し込んでいる。夜通し焚かれた篝火の煙と、硝煙の残り香が、まだ空気に滲んでいた。口の中には、濃い魔素のせいで、鉄の味が張りついている。レクスは、寝台に半身を起こしたまま、赤黒い瞳を、まっすぐこちらに向けていた。一晩考え抜いた者の、静かな目だった。
「契約解除を、頼む。……メルティアさん」
メルティアが、赤い瞳で、レクスを見返した。
「本当に、いいのね。……失敗すれば、消える。それも、承知の上で」
「ああ」
レクスは、迷わなかった。
◇
「聞いてくれ。なんで、賭けることにしたか」
レクスが、灰色の腕を、寝台の上に、投げ出した。動かない腕。だが、その目には、力があった。
「このまま、何もしなけりゃ、俺は、あと数週間で死ぬ。剣も握れず、立つこともできず、寝台の上で、ゆっくり、腐っていく。……そんな終わり方は、まっぴらだ」
自嘲ではなかった。静かな、決意だった。
「一か八か、賭けたい。生きられる目が、少しでもあるなら、掴みたい。……まだ、死にたくないからな。この期に及んでも、諦めが悪いんだ、俺は」
レクスが、不器用に、笑った。赤黒い瞳の奥に、まだ、生への渇望が、燃えている。剣を握れなくなっても、腕が動かなくなっても、消えない渇望が。
「それに、な」
レクスが、ふと、天幕の外に目をやった。東の空の方角へ。
「お前たち、王都に呼ばれてるんだろ。ヴィクトルとの、決着をつけに」
俺は、頷いた。ヴィクトルの召喚のことは、昨夜、レクスに話していた。
「俺も、行きたいんだ」
レクスの赤黒い瞳が、俺を見た。
「剣は、握れない。戦力には、ならない。……それでも、見届けたい。お前たちが、どう決着をつけるのか。二人の追放者の、片割れとして……最後まで、見ていたい」
その言葉に、俺は、胸を打たれた。剣を失っても、レクスは、戦いの結末を、見届けようとしている。仲間として。共に追放された者として。
「だから、賭ける。生きて、王都まで、ついていく。……それが、俺の、選んだ道だ」
◇
メルティアが、静かに、レクスの寝台の脇に、膝をついた。
赤い瞳が、レクスの胸のあたりを、見据えている。そこに刻まれた、下級悪魔との、契約の印。目には見えない、魂の刻印を。
「じゃあ、始めるわ」
メルティアの声は、いつになく、真剣だった。♪の欠片も、ない。
「言っておくけど、痛むわよ。……魂に、直接、私の力を流し込む。あなたの魂を支えてる印を、剥がして、上から書き換える。生きたまま、魂を触られるの。……相当、辛いはず」
「構わねえ」
レクスは、即答した。
「痛みなら、慣れてる。……腕が灰色になっていく痛みに比べりゃ、どうってことない」
メルティアが、小さく、頷いた。それから、アリアを、振り返った。
「アリア。……あなたは、レクスのそばに。手を、握っていて」
アリアが、亜麻色の髪を揺らして、頷いた。幼馴染の手を、そっと、握る。灰色の、動かない手を。
「レクス。……絶対、無事でいてよ」
アリアの声が、震えていた。レクスは、そのアリアに、いつもの調子で、笑いかけようとした。だが、その笑みは、少し、こわばっていた。命を賭ける瞬間の、緊張。それを、隠しきれていなかった。
俺たちは、天幕の中で、見守るしかなかった。ユイが、祈るように、両手を握りしめている。リーゼが、碧い瞳で、じっと、その光景を見つめている。マルクスが、銀縁の眼鏡の奥で、息を詰めている。
天幕の中の、空気が、張り詰めた。
メルティアが、両手を、レクスの胸に、当てた。
赤い光が、その手のひらに、灯り始める。深く、濃い、悪魔の力。血のような赤が、天幕の薄闇を、染めていく。その光を浴びて、レクスの灰色の腕が、赤黒く、照り返した。
「……始めるわ。動かないで、レクス」
メルティアの赤い瞳が、鋭く、レクスを見据えた。
赤い光が、レクスの胸に、沈んでいく。下級悪魔の契約解除が、今、始まった。成功すれば、数年の命。失敗すれば、この場での、消滅。
剣を握れなくなった勇者の、最後の賭けが——動き出した。
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