第116話 再会
前線基地の天幕は、血と硝煙の匂いに、満ちていた。
馬車で二日。東の前線に着いた俺たちを、疲れた顔の兵士が、奥の天幕へと案内した。冥渦の焦げた臭いが、風に乗って、ここまで届いている。赤黒い臭いが、視界の端で、波紋のように揺れた。感覚侵食。前線は、魔素が濃い。
天幕の奥に、レクスがいた。
濃い魔素のせいか、口の中の鉄の味が、いつもより強い。簡素な寝台に、半身を起こして、もたれている。その姿を見て、俺は、言葉を失った。
両腕が、灰色だった。指先から肩まで、すっかり、命の色を失っている。瞳は、赤黒い。肌は、全体的に褪せて、生気がない。かつて、魔王を討つはずだった勇者の体が、内側から、燃え尽きかけていた。
立つのも、やっとなのだろう。寝台にもたれた体が、わずかに、傾いている。隣に座った兵士が、支えるように、手を添えていた。
だが。
レクスは、俺たちを見て、笑った。
「よう。……来てくれたか」
その声は、掠れていた。だが、確かに、レクスの声だった。減らず口を叩いていた、あの男の声。
◇
「ひどい顔だろ」
レクスが、自分の灰色の腕を、見下ろした。
「もう、剣も握れない。立つのも、人の手を借りないと、ままならない。……勇者ってのは、こんなに、情けない終わり方を、するもんなんだな」
自嘲。だが、その声に、湿った絶望はなかった。むしろ、どこか、晴れやかですらあった。
「座れよ。立ったまま、辛気くさい顔されると、こっちが、参る」
俺たちは、寝台の周りに、腰を下ろした。ユイが、心配そうに、レクスの灰色の腕を見ている。レクスは、そんなユイに、不器用に笑いかけた。
「嬢ちゃん。そんな顔、すんな。……俺は、これでも、満足してるんだ」
「満足?」
ユイが、首を傾げた。レクスは、頷いた。
「ああ。……なあ、カイト。覚えてるか。俺が、お前を、追放した時のこと」
忘れるはずがなかった。雨の日だった。「お前はクビだ」と、レクスは言った。それが、全ての始まりだった。
「あの頃の俺は、何も、分かってなかった」
レクスの赤黒い瞳が、天幕の天井を、見上げた。
「強さが、全てだと思ってた。弱いやつは、足手まといだと。お前を切り捨てたのも、それが、正しいと思ってたからだ。……勇者として、当然のことだと」
赤黒い瞳が、天井から、ゆっくりと下りてくる。
「でも、追放されて、全部、失って……命まで、悪魔に売って。それで、やっと、分かった気がするんだ。守るって、どういうことか。強さってのが、何のために、あるのか」
レクスが、俺を見た。赤黒い瞳の奥に、穏やかな光が、宿っていた。
「お前を追放したことは、許してくれとは、言わない。……でも、お前が、本物だったんだな。あの時、切り捨てた、お前のほうが」
◇
しばらく、誰も、口を開かなかった。
天幕の外で、兵士たちの足音と、遠い冥渦の唸りが、聞こえている。やがて、メルティアが、静かに、前に出た。
「レクス。一つ、伝えたいことがあるの」
メルティアの赤い瞳が、レクスを見据えた。♪は、ない。
「あなたの契約を、解除する方法が、あるわ」
レクスの赤黒い瞳が、わずかに、見開かれた。
「下級悪魔との契約を、私の力で、上書きする。……成功すれば、寿命の消費が止まる。完全には治らない。腕も、戻らない。でも、この先、数年は、生きられる」
メルティアの声が、続く。淡々と、だが、誠実に。
「でも、失敗すれば……あなたの魂が、砕ける。寿命が尽きるより、先に、消える。即死よりも、むごい結果になる。……成功率は、私にも、分からない」
天幕の中が、静まり返った。
数年の命か、即座の消滅か。あるいは、何もせず、数週間後の死を待つか。三つの道が、レクスの前に、置かれた。
「あなたが、決めて」
メルティアの声が、静かに、天幕に落ちた。
「これは、あなたの命よ。私たちが、決めることじゃない。賭けるか、賭けないか。……レクス、あなた自身が、選んで」
◇
レクスは、すぐには、答えなかった。
灰色の腕を、見つめている。赤黒い瞳が、何かを、考えている。長い、沈黙だった。天幕の外の物音だけが、時を刻んでいた。
やがて、レクスが、口を開いた。
「……死にたくない、って言ったの、覚えてるか」
掠れた、けれど確かな声だった。
「あれは、本心だ。今でも、変わらない。……俺は、まだ、生きたい。剣が握れなくても。腕が、動かなくても。それでも、生きていたいんだ」
レクスの赤黒い瞳が、揺れた。
「だから、賭けたい。生きられる目が、あるなら。……でも」
レクスの声が、そこで、詰まった。
「賭けに、負けて……お前たちの、目の前で、消えるのは。それは……嫌だな」
成功すれば、生きられる。だが、失敗すれば、仲間の前で、魂が砕けて消える。その光景を、レクスは、恐れていた。死にたくない、という願いと、無様に消えたくない、という願いが、レクスの中で、せめぎ合っている。
レクスが、目を閉じた。
「……一晩、考えさせてくれ」
目を閉じたまま、その声は、静かだった。
「明日の朝、答えを出す。……命を賭けるってのは、そう簡単に、決められることじゃ、ないからな」
俺たちは、頷くしかなかった。これは、レクスの命だ。レクスが、考え抜いて、決めること。俺たちにできるのは、その答えを、待つことだけだった。
天幕の外で、夜の帳が、下り始めていた。剣を握れなくなった勇者が、最後の選択を前に、一人、目を閉じている。
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