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第115話 賭けの天秤

「正直に、話すわ」

 メルティアが、暖炉の前で、赤い瞳を全員に向けた。

 レクスに会いに行くと決めた、その夜。暖炉の薪が燃える匂いの中で、皆が黙って座っていた。ただ会いに行くだけではない。契約解除という、もう一つの選択が、卓上にあった。それを、皆で考えるための時間だった。飲みかけの紅茶は、鉄の味の下で、とうに冷めていた。

「下級悪魔の契約解除は、レクスの魂に刻まれた印を、私の力で、上書きすること。……うまくいけば、レクスは、契約から解放される」

「解放されたら、どうなる」

 俺が問うと、メルティアの赤い瞳が、火を映した。

「寿命の消費が、止まる。今が末期でも、それ以上は、縮まなくなるの。……完全に治るわけじゃない。失った寿命は、戻らない。両腕の灰色も、消えない。でも、『あと数週間で死ぬ』っていう運命は、なくなる。この先、数年は、生きられる」

 数年。剣を握れなくなった男に、数年の時間。確かな救いに、聞こえた。

 だが、メルティアの表情は、晴れなかった。続きがある。その顔が、そう告げていた。

 ◇

「失敗すれば」

 メルティアの声が、低くなった。

「印を剥がす時に……レクスの魂が、砕ける」

 暖炉の火が、低く爆ぜた。

「魂は、契約の印で、支えられている。その印を、無理に剥がせば、魂そのものが、壊れることがある。……そうなれば、レクスは、寿命が尽きるより、先に消える。即死よりも、むごい結果に」

 即死よりも、むごい。

 数週間後に訪れるはずの死を、今、この場で、もっと悲惨な形で、引き寄せてしまう可能性。それが、契約解除の、もう一つの顔だった。

「成功するのか」

 俺が問うと、メルティアは、首を横に振った。

「分からない。やってみないと、分からないの。レクスの魂が、どこまで耐えられるか。私の力が、どこまで届くか。……成功率なんて、誰にも、言えない」

 メルティアの赤い瞳が、まっすぐ、俺を見た。

「でも、一つだけ、確かなことがある。……何もしなければ、レクスは、あと数週間で、死ぬ。それは、変わらない」

 賭けるか、賭けないか。

 賭ければ、数年の猶予か、即座の消滅か。賭けなければ、確実な、数週間後の死。どちらの天秤の皿にも、レクスの命が、載っていた。

 ◇

 俺は、暖炉の火を見つめながら、ある夜のことを思い出していた。以前、メルティアが、俺に「天秤を預ける」と言ったことがあった。契約を解除して確実に助かるか、賭けに出て世界を守る力を残すか。あの時、メルティアは、自分一人で決めずに、俺に選ばせた。それが、俺の命だったから。

 今、同じ天秤が、レクスの前に、ある。

 だが、俺は、気づいていた。これは、レクスの命だ。俺が、決めることではない。俺が「賭けろ」と言うのも、「やめろ」と言うのも、どちらも、傲慢だった。レクスの命の重さを、俺が、勝手に量ってはいけない。

「……これは、レクスが決めることだ」

 俺が言うと、メルティアが、静かに頷いた。

「ええ。賭けるかどうかは、レクス自身が、決めること。私たちが、決めるんじゃない」

 リーゼが、碧い瞳を、こちらに向けた。

「なら、やることは、一つね。レクスに会って、本人の意志を、聞く。……賭けるかどうかは、それから」

「王都の召喚は、どうする」

 マルクスが、銀縁の眼鏡を押し上げた。慎重な声だった。

「期限が、あります。ヴィクトルの召喚を、無視し続ければ、追討。……前線に向かえば、王都とは、逆方向。時間を、使います」

 マルクスの言う通りだった。レクスに会いに行けば、王都への到着は、遅れる。だが。

「それでも、行く」

 迷いのない声が、自分の口から出た。

「レクスは、最後に、会いたいと言った。その願いを、無視はできない。……契約解除のことも、本人に、伝えなきゃならない。王都のことは、レクスに会ってから、考える」

 マルクスは、しばらく俺を見て、それから、小さく頷いた。

「……承知しました。では、最短の経路を、計算します。前線基地まで、馬車で、二日」

 マルクスが、折り目の正しい紙を広げて、経路を引き始めた。データ主義者の手が、レクスに会うための道筋を、組み立てていく。

 ◇

 夜が更けて、出発の準備が、進んだ。

 ユイが、自分の荷物をまとめながら、紫がかった灰色の瞳で、俺を見た。

「レクスさん……助かるかな」

「分からない」

 俺は、正直に答えた。子供だましの慰めは、ユイには、通じない。

「賭けるかどうかも、レクスが決める。賭けて、成功するかも、分からない。……でも、何もしないよりは、ましだ。少なくとも、会いに行ける。最後の願いを、叶えられる」

 ユイは、しばらく考えて、それから、頷いた。

「うん。……レクスさんに、会いたい。私も」

 窓の外の、東の空を見た。あの方角の、前線基地で、剣を置いた勇者が、待っている。

 俺たちは、命を賭けるかどうかの選択を、その手に、届けに行く。決めるのは、レクス自身だ。俺たちにできるのは、その選択を、本人の前に、運ぶことだけだった。

 明日、夜明けとともに、東へ発つ。剣を握れなくなった、一人の追放者に、会うために。


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