第114話 レクスの限界
アリアの風読みが届いたのは、その夜のことだった。
暖炉の前で、アリアの声が、空気の中に滲み出る。亜麻色の髪が、見えない風に、わずかに揺れていた。だが、その声の最初の一音で、俺は、嫌な予感を覚えた。
いつもの風読みより、ずっと、弱い。
「……前線から。レクスさんの、こと」
メルティアが、紅茶のカップを置いた。リーゼが、本を閉じた。診療所にいる全員が、暖炉の火の音だけを残して、アリアの声に、耳を傾けた。飲みかけの紅茶の温かさの下で、鉄の味だけが、舌に張りついていた。
「レクスさん、もう……右腕だけじゃ、ないの。左腕も、動かなくなりかけてる」
左腕も。
あの男は、右腕が灰色になった後、左手で剣を握っていた。片手でも上位種くらいは斬れる、と。その左手まで、動かなくなりかけている。剣を、握れなくなっている。
「立っているのも、やっとだって。……前線の仲間が、支えてないと」
アリアの声が、震えた。幼馴染の容態を、自分の口で伝えなければならない。その辛さが、声に滲んでいた。
◇
「手紙も、預かってる」
アリアが、震える息を一つ吸った。
「読むね。……レクスさんの、言葉」
その手紙を、アリアの声が、なぞり始めた。だが、その言葉は、これまでのレクスの手紙と、まるで違っていた。減らず口も、軽口も、ない。
「『カイト。もう、戦えそうにない』」
暖炉の火が、低く爆ぜる。
「『剣が持てない勇者なんて、ただの飾りだ。……笑えるよな』」
飾り。かつて、魔王を討つはずだった勇者が、自分を、そう呼んでいる。だが、その言葉に、自嘲の棘はなかった。ただ、静かに、事実を受け入れている響き。
「『でも、不思議と、悔いはないんだ』」
アリアの声が、その言葉を、そっとなぞる。
「『最後に、守るために、戦えた。誰かを守って、剣を振れた。……それで、十分だ。勇者だった頃には、分からなかったことが、最後に、分かった気がする』」
守るために戦えた。それで十分だ。
噴水広場で、空っぽに笑っていた男。何のために命を売ったのか分からない、と泣いていた男。その男が、最後に、自分の戦いの意味を、見つけていた。
◇
だが、手紙には、続きがあった。
アリアの声が、そこで、一度、詰まった。最後の一行を、読むのを、ためらうように。
「……レクス」
俺が促すと、アリアは、小さく頷いた。震える声で、その一行を、口にした。
「『会いたい』」
診療所が、静まり返った。
「『死ぬ前に、一度。お前たちに、会いたい』」
会いたい。
死にたくない、と言った男が。最後に、戦う意味を見つけた男が。その上で、たった一つ、願っている。死ぬ前に、もう一度、会いたいと。
俺は、立ち上がっていた。
「レクスのところに、行く」
迷いは、なかった。レクスは、共に戦った仲間だ。二人の追放者だった。最後に会いたいと言うなら、行く。それだけのことだった。
だが、リーゼが、碧い瞳を、こちらに向けた。
「……王都の召喚は、どうするの」
その一言で、現実が、のしかかってきた。ヴィクトルの召喚。出頭しなければ、追討。そして、前線は、東。王都は、中央。レクスのいる方角と、ヴィクトルのいる方角は、逆だった。
二つの場所が、俺を、逆方向に引っ張っていた。
◇
「カイト」
メルティアが、赤い瞳で、俺を見た。
その声に、いつもの軽さはない。何か、重い決断を、口にしようとしている響きだった。
「レクスの契約を解除するなら……今しか、ないわ」
「契約解除」
以前、レクスの手紙が「死にたくない」と告げたあの夜に、メルティアが語ったこと。下級悪魔の契約を、上位悪魔の力で、上書きする。成功すれば、レクスの寿命の消費が止まる。失敗すれば、魂が砕ける。
「あの時は、まだ、間に合うかもしれなかった。でも、崩壊が、ここまで進んだ今……これ以上待てば、契約解除に耐えられる魂すら、残らなくなる」
メルティアの赤い瞳が、暖炉の火を映していた。
「やるなら、今。レクスに会いに行って、本人の意志を聞いて……賭けるかどうかを、決める。……それも、できるだけ、早く」
メルティアの言葉が、診療所に、重く沈んだ。
レクスに残された時間は、わずかだった。剣を握れなくなり、立つのもやっとで、最後に「会いたい」と願っている。その命を、賭けに乗せるかどうか。
成功すれば、猶予。数年の、生きられる時間。
失敗すれば、即、死。寿命が尽きるより、むごい消滅。
窓の外の、東の空を見た。あの方角に、レクスがいる。剣を置いた勇者が、最後の願いを抱えて、俺たちを待っている。
行かなければ、ならなかった。たとえ、ヴィクトルの召喚と、逆方向でも。
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