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第112話 四番目の壁

 平衡が崩れる前に、動くしかなかった。

 ノアが告げた「長くは保たない」という言葉が、頭の中で重く響いていた。魔素が出口を探して、結び目の隙間を押し広げようとしている。ならば、その結び目を、一つでも多く解いてしまえばいい。先手を打つ。それが、唯一の手だった。

 翌朝、ミルフィ村の診療所に、全員が集まった。

 四番目の結び目。肩のあたり。ユイが「次に挑むなら、ここ」と言った位置。糸は、四本だった。

「三本の結び目とは、違うよ」

 ユイが、紫がかった灰色の瞳で、俺の左肩の紋様を覗き込んだ。

「糸が、四本。前の三本より、固く絡まってる。……時間が、かかる。でも、やれる」

 その声に、迷いはなかった。だが、その指先には、まだ薄い火傷の跡が残っている。前の手術の名残。完全には、癒えていない。

 シアが、両手に調和の光を灯した。白銀と金色の間の光。安定膜を、俺とユイの間に広げる。今日は、長くなる。シアも、それを覚悟していた。

「いつでも」

 俺は、蝕を糸より細く発動した。聖と魔の天秤を、指先で支える感覚。口の中の鉄の味が、緊張で、いつもより濃い。ユイが、そっと紋様に触れた。

 ◇

 一秒。二秒。三秒。

 ユイの瞳が、奥へと沈んでいく。四本の糸の、絡まりを読んでいる。

 四秒。五秒。

「……固い。一本目、引いた。でも、二本目が、絡んでる」

 六秒。

 魔印の奥で、黒い魔素が暴れ始めた。糸を引かれた紋様が、抵抗する。シアの安定膜が、押し返す。だが、その膜の表面が、これまでより激しく波打っていた。

 七秒。八秒。

「二本目、引いた……っ、三本目も、固い」

 ユイの声に、力みが滲む。額に、汗。指先の火傷が、開きかけているのか、薄い布に、にじむものがあった。

 九秒。十秒。

「ユイさん、十秒です」

 マルクスの声が、鋭く飛んだ。これまでなら、ここで止めた。だが、四本目の糸が、まだ解けていない。

「まだ……三本目、引けた。あと、一本」

 十一秒。

 シアの息が、荒くなった。紫の瞳に汗が浮かび、調和の光が、大きく揺れる。

「カイトさん、膜が……ユイちゃんの変換器が、限界です」

 十二秒。

 ユイの紫がかった灰色の瞳に、白い光が滲み始めた。暴走の、入口。第三段階の手術で見た、あの白。

 十三秒。

 第七の結び目の時と、同じ限界。だが、四本目の糸は、まだ、ほどけない。

「あと、少し……っ、四本目に、手が、届きそう……!」

 ユイの指が、最後の糸を、つかもうとする。震える指先で。白く光る瞳で。

 十四秒に、踏み込もうとした、その瞬間。

「もう、ダメっ!」

 シアが、叫んだ。

「これ以上は、ユイちゃんが、壊れる!」

 シアが、安定膜を強制的に閉じた。ユイの指が、紋様から、引き剥がされる。

 四本目の糸は、つかめなかった。

 半分だけ緩んでいた四番目の結び目が、ユイの手が離れた瞬間、また、締まり直した。元の固さに。何事もなかったかのように。

「……っ、はぁ……っ」

 ユイが、荒い息を吐いて、診療台に突っ伏した。

 ◇

 ユイの指先を、メルティアが手当てした。

 薬草を煮出した匂いと、かすかな血の匂いが、診療所に漂う。赤い瞳が、わずかに曇っている。ユイの火傷は、これまでで一番、深かった。薄い皮が、めくれている。手当ての布が、すぐに、赤く滲んだ。

「……痛むでしょう」

 メルティアが、静かに言った。♪は、ない。

「平気。……これくらい」

 ユイは、笑おうとした。だが、その手が、震えている。痛みを、こらえている。隠そうとして、隠しきれていない。

「もう一回、やれるよ。少し休めば。……次は、きっと、四本目も」

「ダメよ」

 メルティアの声が、低く遮った。

「今日は、もう、ダメ。あなたの体が、保たない」

 ユイは、何か言いかけて、自分の震える指先を見て、口を閉じた。

 俺は、自分の左肩を見た。四番目の結び目は、解けていない。半分緩んで、また締まった。三本目までは引けた。だが、四本目に、届かなかった。

 ノアの声が、外套の奥から、静かに響いた。

「……三本の結び目は、解けた。だが、四本の糸は、十三秒でも届かない。第七の結び目が、深い位置で十三秒。四番目は、糸の数そのものが多い。ユイの体が耐えられる限界の中では──ほどけない」

 四本の糸。それが、壁だった。

 残りの結び目は、一番、二番、四番、六番。どれも、糸が四本から五本。今日届かなかった四番目と、同じか、それ以上の手強さだ。

 三者同時操作。ユイの目、シアの調和、俺の蝕。これまで三つの結び目を解いてきた、その方法。だが、その方法には、限界があった。

 ユイが、震える指先を握りしめて、悔しそうに、唇を噛んだ。

「……ごめん、お兄ちゃん。あと、一本、だったのに」

「謝るな」

 俺は、ユイの頭に、手を置いた。

「お前は、十分やった。……足りないのは、お前じゃない。やり方だ」

 今までのやり方では、残りの結び目は、解けない。

 四本の糸の壁が、俺たちの前に、立ちはだかっていた。


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