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第111話 凍えた朝

「灰原カイト殿は、まだ来られんのか」

 前線からの伝令が、診療所の戸口で、苛立ちを隠さなかった。鎧の肩に、長旅の埃が積もっている。

 俺は、何も言えなかった。

 ミルフィ村に戻って、数日が過ぎていた。45%で止まった魔印を抱えての、静かな日々。穏やかな朝のはずだった。だが、その穏やかさは、薄氷の上に立っている。

「東の冥渦が、また広がってる。封印が、緩みかけてるんだ。あんたの蝕がなけりゃ、直せない。……兵が、何人も死んでる。なのに、なぜ来ない」

 伝令の声に、責める色があった。それも、当然だった。世界を守る力を、俺は持っている。蝕を使えば、緩んだ封印を直せる。兵士たちが死なずに済む。

 だが、使えない。

 蝕を使えば、止まった平衡が崩れる。45%で凍りついた魔印が、また動き出す。残りの命の時間が、再び減り始める。ノアが、繰り返し警告していた。蝕は、今、封じられた力だった。

「……すまない。今は、行けない事情がある」

 俺が言うと、伝令は唇を噛んだ。

「事情、ね。……あんたにも、事情があるんだろうさ。でも、前線の兵にも、命がある」

 それだけ言って、伝令は馬に乗り、去っていった。蹄の音が、朝靄の中に遠ざかる。

 戸口に立ち尽くす俺の背中に、リーゼの声がかかった。

「気にしないで。あなたのせいじゃない」

「……分かってる」

 分かっていても、楽にはならなかった。守れる力を持ちながら、守りに行けない。その重さは、紅茶の鉄の味みたいに、いつも舌の奥に残っていた。

 ◇

 診療所に戻ると、ノアの声が、外套の奥から響いた。

「カイト。少し、いいか」

 いつもより、声が低い。何かを、慎重に確かめている時の響き。

「魔印の平衡を、ずっと観察している。……あまり、よくない」

 左腕を、診療台の上に出した。袖をまくる。手首から肩、首筋へと這う黒い紋様。45%で止まったはずの、その黒。

「止まっているように見える。だが、内側で、魔素が動いている。出口を、探しているんだ」

「出口?」

「魔印の魔素は、本来、蝕という出口から放出される。お前が蝕を使うことで、魔素は均衡を保ってきた。……だが今、その出口が塞がれている。蝕を、使えないからな」

「行き場をなくした魔素は、別の出口を探し始める。具体的には──まだ解けていない、四つの結び目。その隙間を、押し広げようとしている」

 残り四つの結び目。一番、二番、四番、六番。これまで解いた三本の糸の結び目とは、わけが違う。糸が、四本から五本。固く、深く、絡み合っている。

「結び目が、押し広げられたら、どうなる」

「平衡が、崩れる。魔印が、また進み始める。……45%で止まった時計の針が、再び、動き出す」

 診療台の上の左腕を、見つめた。黒い紋様は、静かに見える。脈打ってもいない。だが、その奥で、見えない魔素が、出口を探して、蠢いている。

 ◇

 昼。リーゼが、薬草を磨り潰していた。

 ミルフィ村の診療所では、シアの調和の光が届かない時のために、薬草の処方も併用している。リーゼが、その手伝いをしていた。だが、その手つきが、どこかぎこちない。

 磨り潰す手が、時々、止まる。碧い瞳の光が、以前より、弱い。聖剣の吸収の代償。失われた魔力が、まだ戻っていない。

「リーゼ。無理は、するな」

「無理なんて、してない」

 即答だった。だが、その声に、いつもの張りがない。

「魔力が、戻らないだけよ。体は、動く。問題ない」

 問題ない、とリーゼは言う。だが、磨り潰す手が、また止まった。額に、薄く汗が浮いている。聖剣の代償は、本人が言うより、重いのかもしれない。父が、少しずつ魔力を奪われて弱っていったように。

 俺は、何も言わなかった。リーゼが「問題ない」と言う時、それ以上踏み込まれたくないことを、知っていた。ただ、磨り潰す作業を、半分、引き受けた。

 リーゼは、文句を言わなかった。それが、答えだった。

 ◇

 夜。診療所の暖炉の前で、ノアの声が、もう一度、響いた。

 その声を、俺だけが聞いていた。みんなは、もう眠っている。

「カイト。一つ、言っておかなければならない」

 暖炉の火が、低く爆ぜた。

「平衡は、思っていたより、脆い。魔素が出口を探す速度は、日に日に、上がっている。……このままでは、長くは保たない」

「どれくらい、保つ」

「分からない。数週間か、あるいは、もっと短いか。……だが、確実に言えることがある」

 外套の奥のノアの声が、静かに、最後の一言を告げた。

「止まった時計の針は──もう、内側から、震え始めている」

 左腕を見た。黒い紋様。45%。止まっているはずの、その針が、確かにそこにある。

 暖炉の火が、揺れた。穏やかな夜だった。だが、その穏やかさの底で、何かが、静かに、動き出そうとしていた。


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