第110話 止まった時計
翌朝、ノアが俺の魔印を、もう一度測った。
診療所の寝台に腰かけて、左腕を差し出す。窓から差し込む朝の光が、首から腕へ這う黒い紋様を照らしていた。45%。昨日、聖騎士が去った時のままの数字。
外套の奥で、ノアがしばらく沈黙した。
「進行が……止まっている。完全に。昨日から、針一本分も、動いていない」
止まった。
三つの結び目を解いたことと、リーゼの聖剣が暴走分を吸い上げたことが、合わさったのだろう。膨れ上がろうとしていた魔印が、ちょうど釣り合う場所で、動きを止めた。
「ただし」
ノアの声が、一段低くなった。
「消えてはいない。45%のまま、凍りついている。残り四つの結び目は、まだそこにある。全属性も、蝕も、これまで通り使える。……だが、蝕を使えば、この平衡が崩れるかもしれない。崩れれば、また進み出す」
止まった。だが、消えていない。
不完全な勝利だった。それでも——「あと一年」という、あの言葉は消えた。少なくとも、今は。減り続けていた時間が、止まっている。
◇
リーゼは、隣の部屋の寝台で休んでいた。
俺が入っていくと、碧い瞳がこちらを向いた。その瞳の光が、いつもより少し、弱い。聖剣に魔力を吸われた痕が、まだ体に残っている。
「無理して起きるな」
「起きてない。天井を見てるだけ」
リーゼはそう言って、また視線を上に戻した。
「……父と、同じ道を選んだ」
ぽつりと落ちた声が、続く。
「聖剣に魔力を吸われて、弱っていく。父が辿ったのと、同じ。知った上で、選んだ。……後悔は、ない」
その声が、わずかに掠れていた。後悔はない、と言いながら、本当に何も感じていないわけではないのだろう。父を蝕んだ剣を、自分も握った。その重さを、碧い瞳の奥に押し込めている。
俺は、何も言えなかった。お前のおかげで止まった、と言うのは、お前が代償を払ったと認めることになる。礼を言えば、リーゼの傷を軽いものにしてしまう気がした。
ただ、寝台の脇に腰を下ろして、しばらく一緒に天井を見ていた。
シアが入ってきて、リーゼの体に調和の光を当て始めた。白銀と金色の間の光が、聖剣の吸収痕を、そっと撫でていく。
「……少しは、効いてる?」
シアが尋ねると、リーゼは小さく頷いた。
「ええ。あなたの光は、排除しないから。聖剣の傷にも、敵対しない。……不思議ね。傷に寄り添う光なんて」
◇
昼。診療所の暖炉の前に、全員が集まった。
メルティアが、紅茶を淹れる。湯気の立つカップが、一つずつ配られていく。ユイの分には、いつも通り砂糖を多めに。
そして、リーゼのカップにも、メルティアは砂糖を入れた。
いつもは入れない。リーゼは甘い紅茶を好まない。だが今日は、何も聞かずに、一匙。
「……戦った人には、甘い紅茶よ♪」
♪が、戻っていた。だがその声の奥に、リーゼへの何かが、確かに滲んでいた。言葉にすれば消えてしまう類いの、感謝のようなものが。
リーゼは、砂糖入りの紅茶を一口飲んで、小さく息を吐いた。文句は、言わなかった。
ユイが、俺の左腕を覗き込んでいた。紫がかった灰色の瞳で、紋様の奥を見ている。
「結び目、あと四つ残ってる」
ユイの声は、不思議なほど落ち着いていた。
「でも、今は動いてない。静かにしてる。……寝てるみたい。お兄ちゃんの黒いの、今、眠ってるの」
眠っている。凍りついた魔印を、ユイの目は、そう捉えていた。暴れることをやめて、静かに眠る黒い紋様。いつか目覚めるかもしれない。だが今は、眠っている。
◇
アリアの風読みが、エリシアの言葉を運んできた。
「セドリックの報告は、もうヴィクトル猊下に届いているはずです」
エリシアの声は、いつもの冷静さの中に、わずかな緊張を含んでいた。
「聖剣で魔印が止まったことは、教会にとって完全な想定外でしょう。穢れを浄めるはずの理屈が、通じなかった。……猊下が次にどう動くか、私にも読めません。この先は——あの方との、直接の対決になるかもしれない」
そう言い残して、通信が途切れた。
ヴィクトル。盤の向こうの男は、今度の一手をどう受け止めただろう。次に何を動かしてくるのか。それは、まだ見えなかった。
◇
窓の外に、ミルフィ村の春が広がっていた。
花畑が、風に揺れている。空が青い。診療所の薬草の匂いと、外から流れてくる花の匂いが、混ざり合っていた。
何一つ、完全には片付いていない。
魔印は止まったが、消えていない。結び目は、まだ四つ残っている。レクスの体は、前線で限界に近づいている。リーゼは、聖剣の代償を負った。ヴィクトルは、次の手を準備している。
それでも。
時計が、止まっている。
ずっと、針が進み続けていた。35%、40%、45%。減り続ける時間を、数えるしかなかった。その針が、今は止まっている。動いていない。残りの時間が、減っていない。
俺は、暖炉の前で紅茶を啜った。
甘かった。砂糖が入っている。リーゼのカップにも、同じ甘さが入っている。隣でユイが、砂糖多めの紅茶を、ふうふうと冷ましている。メルティアの♪が、暖炉の火の音と一緒に、小さく揺れていた。
止まった。だが、消えていない。
ノアの言葉が、頭の中で繰り返される。止まった時計。針は動かない。だが、時計そのものは壊れていない。いつか、また動き出す日が来るのかもしれない。
だが、今は——止まっている。
今はそれで、十分だった。
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