第109話 吸収
最初に異変を感じたのは、左腕だった。
聖騎士と睨み合ったまま、動けずにいた時。袖の下の紋様が、ぴくりと脈打った。いつもの脈動とは違う。内側から、何かが膨れ上がるような感覚。
三つの結び目を解いた場所が、熱を持ち始めていた。
「……っ」
灼熱が、左腕を駆け上がった。手首から肩へ、首筋へ。三つ解けた紋様の縁から、黒い線が組み替わろうとしている。ほどいた糸の周りで、残りの結び目が反発するように、きつく締まり直していく。
「カイトさん!」
シアの声が、やけに遠く聞こえた。膝が、勝手に折れた。畑の土に手をつく。視界が、白と黒の斑に割れていく。麦畑の金色が音を立て、聖騎士の鎧の輝きが舌の上で苦くなり、世界の境界が溶けていく。感覚侵食が、一気に深いところまで落ちた。
ノアの声が、どこか歪んで響いた。
「魔印が、再編成を始めている。三つの結び目を解いたことで、構造が不安定化した。進行は遅くなったが……解けた反動で、残りの結び目が暴れている。42%……43%」
止まっていたはずの数字が、暴走に変わって駆け上がっていく。44%。黒い紋様が、首から顎へ、頬の際へと這い上がろうとする。
シアが両手の調和の光を、最大に展開した。
「抑え込みます……っ」
白銀と金色の光が、俺の全身を包む。だが、押し返せない。暴走の勢いが、シアの調和の許容を超えている。膜が、軋み、悲鳴を上げる。
「お兄ちゃん!」
駆け寄ろうとしたユイの腕を、メルティアが掴んで止めた。今ユイが触れれば、暴走した魔印の魔素が、一気にユイの体へ流れ込む。変換器が、耐えられるはずがない。
ユイにも、シアにも、手が出せない。
俺は、土に爪を立てた。灼熱が、全身を焼いていく。意識が、白い斑に飲まれかけた——
その時、リーゼが動いた。
◇
鞘から、聖剣が滑り出る音がした。
「星断ち」。銀色の刀身が、朝日を弾く。リーゼの碧い瞳が、これまで見たことのない色をしていた。覚悟と、恐れと、それを越えた何か。
父を蝕んだ剣。一族を何代も喰らってきた、寄生の刃。その真実を知ってなお、リーゼはこの剣を手放さなかった。
リーゼが、刀身を俺の左腕に当てた。
「動かないで」
短く言って、リーゼは聖剣の力を解き放った。刀身が、黒く染まり始める。俺の左腕の紋様から、黒い力が引きずり出されていく。聖剣が、魔印の魔素を吸い上げている。暴走して膨れ上がった黒が、刃に吸い込まれ、刀身を伝って消えていく。
灼熱が、引いていく。全身を焼いていた熱が、潮のように退いていった。視界の斑が、ゆっくりと像を結び直す。麦畑の金色が、ちゃんと金色に戻る。音が、音に戻る。世界が、輪郭を取り戻していく。
魔印の暴走が——止まった。
「……は」
息が、漏れた。膝をついたまま、俺は自分の左腕を見た。黒い紋様が、もう膨れていない。脈動が、静かになっている。
だが。
リーゼの顔色が、変わっていた。
刀身が黒く染まったまま、もう一つの流れが生まれていた。逆流。聖剣がカイトの魔印を吸うと同時に、握っているリーゼ自身の魔力をも、吸い始めている。
リーゼの碧い瞳の光が、すっと弱くなった。
頬から、血の気が引いていく。額に汗が浮かび、剣を握る手が、白くなるほど力んでいる。父がそうだったように。少しずつ魔力を奪われ、弱っていった父と、同じ道を。
「リーゼ、もういい! 離せ!」
俺が叫ぶと、リーゼは聖剣を、紋様から引き剥がした。
刀身の黒が、ゆっくりと薄れていく。リーゼはよろめき、片膝をついた。荒い息。だが、その碧い瞳は、まっすぐ俺の左腕を見ていた。
外套の奥から、ノアの声が響いた。
「魔印の進行が……止まっている。45%。三つの結び目を解いた効果と、聖剣が暴走分を吸い上げた効果が、合わさった。不安定だが……平衡に達している。進行が、止まった」
止まった。
ずっと進み続けていた数字が、45%で止まっていた。
◇
セドリックが、目を見開いていた。
聖騎士たちも、立ち尽くしている。畑の真ん中で起きたことの意味を、誰も飲み込めていない。
穢れた悪魔の力ではなく、聖剣が——教会の聖なる武器が、魔印を止めた。彼らの論理では、説明のつかない光景だった。穢れを浄めるはずの理屈の、どこにも当てはまらない。
セドリックの穏やかな顔に、初めて、迷いに似たものがよぎった。
だが、それも一瞬だった。青い瞳が、すぐにいつもの静けさを取り戻す。
「……局長に、報告します」
それだけ言って、セドリックは踵を返した。
白い法衣の列が、向きを変えていく。聖騎士たちが、ミルフィ村の畑から退いていった。今日は、武力で退けたのではない。彼らの正義では処理しきれない現実に、押されて引いたのだった。
白い影が、朝日の中へ遠ざかっていく。
張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
俺は、止まった紋様を抱えて、ほっと息を吐いた。45%。止まった。生きていられる。
だが、隣で聞こえた音に、顔を上げた。
リーゼの手が、震えていた。
聖剣を鞘に納めようとして、その手がうまく動かない。小刻みに揺れる指先を、リーゼは反対の手で、そっと押さえ込んでいた。
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