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第107話 夜の手術

 診療所の蝋燭が、三本に増えていた。

 夜の手術には、光が要る。ユイの手元を照らすために、メルティアが蝋燭を足したのだ。蜜蝋の匂いが薬草の残り香に重なって、狭い部屋に満ちている。窓の外はもう真っ暗で、虫の声だけが夜の深さを告げていた。

 時間がない。明朝には、白い法衣が門に着く。それまでに、三つ目を刻まなければならない。

 ユイが俺の左手の横に座った。火傷した指先には、メルティアが手当てした薄い布が巻かれている。それでも、その目に迷いはなかった。

「三つ目は、深いところにある」

 ユイの紫がかった灰色の瞳が、紋様の奥を覗き込む。

「鎖骨の、もっと下。糸が四本。さっきより遠い場所にあるから、たぶん時間がかかる」

「十秒を超えたら、止める」

 俺が言うと、ユイは答えずに、ただ小さく頷いた。その頷きが約束ではなく、ただの相槌だったと気づくのは、もう少し後のことだ。

 シアが両手に調和の光を灯した。白銀と金色の間の光が、いつもより強い。今夜は長くなる。シアもそれを覚悟していて、安定膜を俺とユイの間に広げていく。

「いつでも」

 俺は蝕を細く発動し、ユイがそっと紋様に触れた。

 ◇

 一秒。二秒。三秒。

 ユイの瞳が、奥へ奥へと沈んでいく。鎖骨の下の、深い結び目を探して。

 四秒。五秒。

「……あった。四本、絡まってる。固い」

 六秒。

「一本目、引いた。固い。すごく、固い」

 ユイの声に力みが滲み、額に汗が浮いた。指先に巻いた布が、わずかに動いている。

 七秒。八秒。

 魔印の奥で、黒い魔素が暴れ始めた。深い場所の糸を引かれて、紋様全体が抵抗する。シアの安定膜がそれを押し返すが、膜の表面は激しく波打っていた。

「二本目、引く……っ」

 九秒。

 ユイの指先の布に、にじむものがあった。火傷が、開いたのかもしれない。

 十秒。

「ユイさん、十秒です。閾値に達しました。中断を——」マルクスの声が、鋭く飛んだ。

「まだ」

 ユイは、手を離さなかった。

「あと二本。見えてる。もう少しで、ほどける」

 十一秒。

 シアの息が荒くなり、紫の瞳に汗が浮かんだ。両手の調和の光が、大きく揺れている。

「カイトさん、膜が……ユイちゃんの変換器が、限界を超えそうです」

 調和は、押し切る力ではない。受け止めて行き場を変える力だ。だが、流れ込む魔素が、受け止められる量を超えようとしていた。教会の浄化なら、ここで強引に祓えるのかもしれない。それをすれば、ユイの中の何かまで一緒に祓われる。受容には、限界がある。

 十二秒。

 ユイの紫がかった灰色の瞳に、白い光が滲んだ。暴走の、入口だった。

「ユイ! 手を離せ!」

 俺は叫んだ。蝕の均衡が崩れかけ、聖と魔の天秤が激しく傾く。

 だがユイは、離さなかった。白く光る瞳のまま、震える指で、三本目の糸を手繰り寄せていく。

「……離さない」

 掠れた声で、ユイは続けた。

「お兄ちゃんだけが壊れるのは——嫌だって、言ったでしょ」

 胸を、何かが貫いた。

 あの言葉を、ユイは覚えていた。ずっと前、俺が自分の体のことで無茶をした時、ユイが泣きながら口にした言葉を。兄だけが痛い思いをするのは嫌だと。その約束を、火傷した指で、白く光る瞳で、今こうして果たそうとしている。

 十三秒。

「四本目——っ!」

 ユイの指が、最後の糸を引いた。

 ほどけた。

 三つ目の結び目が緩んだ。一つ目より、二つ目より、ずっと深く重い手応えとともに。

 ユイの手が紋様から離れ、そのまま糸の切れた人形のように横へ崩れた。

「ユイ!」

 シアが、調和の光ごとユイを抱きとめる。

 ユイの体は、抱きとめたシアが息を呑むほど熱かった。変換器が過負荷で発熱している。シアの調和の光が、その熱を冷やすように、優しくユイを包んだ。

 白い光が瞳から消え、紫がかった灰色がゆっくりと戻ってくる。荒い呼吸を繰り返しながら、ユイは笑った。

「三つ……ほどけた」

 目尻に、涙が滲んでいた。痛かったのだ。十三秒、ずっと。痛くても、手を離さなかった。

 俺はユイの前に膝をついて、その潤んだ瞳を覗き込んだ。

「もうやめろ。これ以上は、お前が壊れる」

「やだ」

 即答だった。ユイの潤んだ瞳が、まっすぐ俺を見ている。

「お兄ちゃんだけが壊れるのは、嫌。私、ずっとそう言ってる。お兄ちゃんはいつも一人で、痛いのを全部引き受ける。……今度は、私の番なの」

 返す言葉が、見つからなかった。

 外套の奥から、ノアの低い声が響いた。

「結び目が三つ、解けた。魔印の進行速度は、元の五分の一にまで低下している。残り四つ。全て解ければ、完全に止まる」

 五分の一。確かに効いている。だがまだ、止まってはいない。残り四つを解くには、また何度も、ユイにこの痛みを越えさせることになる。

 ◇

 窓の外が白み始めていた。いつの間にか虫の声が止んで、藍色の闇が東の端から薄れていく。夜が、終わろうとしていた。

 メルティアが窓辺に立ち、赤い瞳で東の空を見つめた。

「……来るわ」

 その一言が、診療所の空気を変えた。

 三つ、刻んだ。五分の一まで落とした。それでも、夜は明ける。

 朝日と一緒に、白い法衣がこの村へやってくる。


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