第106話 白い介入
「セドリックが、呼んだんだ」
アリアの声が、診療所の空気を裂いた。
窓辺で風を読んでいた亜麻色の髪が、ぴたりと止まっている。眼鏡の奥の瞳が、東街道の彼方を見据えたまま動かない。
「白い法衣、十名以上。聖騎士団の一部隊。隊列を組んで、ラスティカに向かってる。先頭に立ってるのは——あの男じゃない。でも、あの男が王都に送った通信の後に動き出してる。間違いなく、セドリックが呼んだ部隊」
俺は左腕の紋様を見下ろした。二つ薄れた黒。残り五つ。今朝までは、明日また一つと考えていた。その明日が、来ないかもしれない。
メルティアが部屋の隅から進み出て、赤い瞳を細めた。
「ヴィクトルの口実は、見当がつくわ」
暖炉の火に目を向けたまま、低く続ける。
「穢れた力による治療。蝕も、悪魔との契約も、魔印を操作することも、教会から見れば全部『穢れ』。穢れを穢れで治すなど、更なる穢れを生むだけ——そう言って、正規の浄化を押しつけてくる。あの男は、自分が正しいと信じて疑わない顔で、それを言うのよ」
マルクスが銀縁の眼鏡を押し上げ、ノートを開いた。
「局長の手は、想定より早い。セドリックの報告から、わずか二日で部隊を動かしています。報告を受けてから編成したのでは、間に合わない速度です」
ページをめくる指が止まり、銀縁の奥の目が険しくなった。
「つまり、予め用意していた。三者同時操作が行われると推測して、それを止める部隊を、あらかじめ待機させていたんでしょう。……こちらの動きは、最初から読まれていた」
読まれていた。背筋に、鉄の味に似た冷たさが走る。ヴィクトルは盤の向こうで、こちらの一手を待っていた。
◇
「猶予は、どれくらいだ」
俺が問うと、アリアは目を閉じて、風の流れをもう一度たどった。
「部隊の進む速さと、東街道の距離から……半日。早ければ、明日の朝には門に着く」
半日。
リーゼが扉の前から離れ、テーブルに歩み寄った。碧い瞳が、紙の束を素早くめくっていく。エリシアが用意した王権保護の証明書。法の盾。
「聖騎士隊が来ても、すぐには手を出せない。ここはミルフィ村、自由都市の管轄外。エリシア様の証明書があれば、王権の保護下にある者として、教会の介入を一度は退けられる」
碧い瞳が、ふと曇った。
「ただし……ヴィクトルが『聖戦令に基づく緊急浄化権限』を持ち出してきたら、話は変わる。聖戦中の緊急措置は、王権よりも教会の裁量が優先される条項がある。それを使われると、王権保護の証明書も、紙切れ同然になりかねない」
法で守れる保証はない。リーゼの碧い瞳が、それを認めていた。
部屋が、重く沈んだ。
その沈黙を破ったのは、メルティアの声だった。いつもより、ずっと低い。
「千二百年前も、同じだったわ」
全員の視線が、メルティアに集まる。赤い瞳は、暖炉の炎の奥の、もっと遠い何かを見ていた。
「あの時も、教会は『正しいこと』を理由に、調律者を止めようとした。世界を救うために体を壊していく彼を、教会は『穢れた力に蝕まれた者』と呼んだ。救うのではなく、浄めるべき対象だと」
メルティアの指が、自分の胸元を、無意識になぞった。翼があった場所を。
「あの時、私は彼を逃がそうとした。でも、間に合わなかった。教会は彼を捕らえて——浄化した」
暖炉の薪が、小さく爆ぜる。
「浄化は、成功したわ。彼の中の魔は、きれいに祓われた。そして同時に、彼の全属性も消えた。封印を直す力も、何もかも。彼はただの人間に戻って……世界を救う手立ては、永遠に失われた」
メルティアの赤い瞳が、ようやく炎から上がり、俺を見た。
「同じことを、繰り返させない。今度こそ」
千二百年前の結末が、初めて、はっきりと形になった。浄化された調律者。失われた力。メルティアが背負い続けてきた、終わらなかった後悔の正体が。
俺は、左腕の紋様を握った。冷たくて、まだ脈打っている黒い線を。
「今夜、三つ目を解く」
全員が、俺を見た。
「聖騎士が来る前に。半日あれば、一つは解ける。今朝の二つで進行が三分の一に落ちた。三つ目が解ければ、もっと落ちる。一つでも多く刻んでおけば、たとえ止められても、それだけ時間を稼げる」
「ユイちゃんの体が」
シアが言いかけて、口を閉じた。
三つ目の結び目は、二つ目より深い。接触は十秒の壁に届くかもしれない。ユイの指先の火傷は、まだ赤い。分かっている。分かった上で、それでも。
ユイが、紅茶のカップを置いた。
紫がかった灰色の瞳が、まっすぐ俺を見ている。
「やる。今夜、やろう、お兄ちゃん」
火傷した指先を握りしめて、ユイは笑ってみせた。
窓の外で、夜の帳が下り始めていた。
東の空のどこかで、白い法衣の波がこちらへ進んでいる。
半日。この半日で、どこまで刻めるか。
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